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2F/当番ノート

暮らしのノイズ5:にがてなものをためす

当番ノート 第49期

にがてなものの話をするとき、ほんのすこしだけ身体に力が入る。わたしのにがてなものは、だれかの好きなものかもしれないし、だれかの生活そのものかもしれない。

それでも、わたしはバナナがにがてだ。物心がついてからは、じぶんで選んで食べようとしたことはない。栄養があって安いから、と何度か食べたことはあるけれど、そのときもあまり楽しめなかった。

もっと食べ物でにがてなものといえば、きのこの裏側、いかめしの断面、クロッカンショコラ。それはぜんぶ視覚的なもので、味はどれもすき。ずっと前、外国のスーパーマーケットでものすごく大きいきのこの裏側を見て、失神しかけたことがある。

たとえば映画を観たり本を読んだときは、じぶんの好みとちがっていてもそれはそれで新しい発見になって、おもしろい。観るまで、読むまでどう感じるかわからないから、きっと試すのをやめないだろう。

けれど、もうわたしにとってバナナは、どんなバナナもひとしくバナナだ。にがてだということをすでにわかってしまっている。好みじゃなかった映画を2度は観ないように、わたしはバナナをたべない。

それではなんとなくさみしいようにおもえて、暮らしのノイズのひとつとして、試してみることにした。サルがバナナを好きだというのはほんとうだろうか。しらべてみると、同じように疑問を持った小学2年生の男の子が、専門家の先生に質問をしてくれていた。

“ひとくちにサルといっても、サルの仲間にはゴリラやニホンザルもいて、そのしゅるいは180しゅるいにもなります。だから、かならずしもぜんぶのサルがバナナがすきというわけではありません。”

ただ単純にサルの種別によるということなのかもしれないけれど、みんなが好きな中でバナナをきらいなサルがいるのだとしたら、とおもうとなんだか親近感をおぼえる。ちなみに、わたしは小さいころからカレーもあまり好きではなかったから、まわりの人はよく不思議がった。カレーがきらいな子どもがいるなんて!と。きっとこのサルもお母さんに「バナナをたべてくれたら楽なのに」と言われているかもしれない。

スーパーへ向かい、バナナを買う。バナナってほんとうに安いのに栄養があって、好きでいられたらきっと毎日たべているだろうな。ふだん買わないから、かごの中のバナナのほうもよそよそしい顔をしている。おもっていたよりも、重い。

家に持ち帰ってほかのものを冷蔵庫へ入れていく中で、バナナを冷蔵庫にいれるべきなのかどうかもよくわからない。じっくり見て、ほんとうに完成された果物だなと感心する。手もよごれないし、むくときもすこしたのしい。神さまはバナナを楽しみながらつくっただろう。そのままひとつ食べることにした。

味は、しっている。ふうん、変わっていないんだな、という感じ。きっとあしたからはパウンドケーキになったり、砂糖とバターでソテーされたりするだろう。触感は、似ているものを頭の中でさがしてもみつからない。

そもそも、わたし前にもこんなふうに、わざわざバナナを買ってきてたべたような気がする。たべているうちに記憶がよみがえってくる。前の時は、ほんとうにバナナの皮を踏んづけるとすべるのかどうかをひとりで試したのだった。味よりもじぶんのほうが変わっていないことに気がついてこわくなる。

それでも、にがてなものをにがてだと決めつけないで、ときどき試してみるのはいいかもしれない。しらないあいだに、じぶんのほうが変わっているかもしれないから。

そういえば、さっきしらべた質問の回答によると、サルのあまり知られていない好物は昆虫だという。 “ セミがまちがってサル山に入ると、あっというまにたべられてしまう”らしい。ドンキーコングがセミを集めて冒険する物語だったら、売れていなかっただろうな。

冬日さつき

冬日さつき

校閲者、物書き。
新聞社やウェブメディアなどでの校閲の経験を経て、2020年からフリーに。小説やエッセイ、ビジネス書、翻訳文など、幅広い分野に携わる。「灰かぶり少女のまま」をはじめとした日記やエッセイ、紀行文、短編小説などを電子書籍やウェブで配信中。趣味のひとつは夢を見ること。

Reviewed by
Maysa Tomikawa

すべてのサルがバナナを好きなわけじゃない、というので真っ先に思い出したのは、某有名ニホンザルのYoutubeチャンネル。バナナも食べるけれどあんまり好きじゃないらしいって言ってた気がする。それを意外に感じたけれど、そりゃサルにも好みはあるわいなぁと思ったんだった。

実をいうと、わたしはメロンが苦手だ。そして、冬日さんと同じように、たまにわざわざメロンを食べたりする。案の定、「あ、やっぱり苦手だわ」ってなる。冷静に考えると、何を確認しようとしていたんだろうと笑けてくる。もしかしたら、以前めちゃくちゃ良いメロンをいただいたとき、初めておいしいと感じたので、どこかでロシアンルーレット的な当たりを期待しているのかもしれない。

あえて苦手なことをして、苦手であることを確認するのって、自分自身の輪郭を確認する作業なのかも。味覚は時間とともに変化するし。そして、味覚以外のいろいろも。どこかのタイミングで、苦手なものが苦手じゃなくなるときがくるかもしれない。自分の輪郭が塗りかわるときがくるかもしれない。

そういえば、父さんも度々苦手な食べ物に挑戦していた。しょうがも、わさびも、大葉や納豆、えんがわも最初は苦手だった。わたしたちが美味い美味いと食べていたら、羨ましかったのか、何度か苦手確認の末、いつの間にか苦手じゃないぞ、これはうまいぞって、父の中でなにかが変わっていったんだろうね。その度に美味しく感じるものが増えて、父は何度も好き嫌いの輪郭を何度も塗りかえていった。もちろん、塗りかわらないものもきっとあるし、それは決して悪いことじゃない。変わらない方がいいことだってあるし。

その反対もあったりするな、とも思う。好きだったものが、いつのまにか苦手になっていたり、好きだったものの問題が見えてくるようになったりして、距離をとるようになったり。好き嫌いはコンスタントに変わり続ける。それが生きるってことか、それもある意味進化ってことか、なんて思ったりして。バナナをそんなに好きじゃないニホンザルと、メロンが苦手なわたし、どちらもそんなに違わないよなとも…

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