にがてなものの話をするとき、ほんのすこしだけ身体に力が入る。わたしのにがてなものは、だれかの好きなものかもしれないし、だれかの生活そのものかもしれない。
それでも、わたしはバナナがにがてだ。物心がついてからは、じぶんで選んで食べようとしたことはない。栄養があって安いから、と何度か食べたことはあるけれど、そのときもあまり楽しめなかった。
もっと食べ物でにがてなものといえば、きのこの裏側、いかめしの断面、クロッカンショコラ。それはぜんぶ視覚的なもので、味はどれもすき。ずっと前、外国のスーパーマーケットでものすごく大きいきのこの裏側を見て、失神しかけたことがある。
たとえば映画を観たり本を読んだときは、じぶんの好みとちがっていてもそれはそれで新しい発見になって、おもしろい。観るまで、読むまでどう感じるかわからないから、きっと試すのをやめないだろう。
けれど、もうわたしにとってバナナは、どんなバナナもひとしくバナナだ。にがてだということをすでにわかってしまっている。好みじゃなかった映画を2度は観ないように、わたしはバナナをたべない。
それではなんとなくさみしいようにおもえて、暮らしのノイズのひとつとして、試してみることにした。サルがバナナを好きだというのはほんとうだろうか。しらべてみると、同じように疑問を持った小学2年生の男の子が、専門家の先生に質問をしてくれていた。
“ひとくちにサルといっても、サルの仲間にはゴリラやニホンザルもいて、そのしゅるいは180しゅるいにもなります。だから、かならずしもぜんぶのサルがバナナがすきというわけではありません。”
ただ単純にサルの種別によるということなのかもしれないけれど、みんなが好きな中でバナナをきらいなサルがいるのだとしたら、とおもうとなんだか親近感をおぼえる。ちなみに、わたしは小さいころからカレーもあまり好きではなかったから、まわりの人はよく不思議がった。カレーがきらいな子どもがいるなんて!と。きっとこのサルもお母さんに「バナナをたべてくれたら楽なのに」と言われているかもしれない。
スーパーへ向かい、バナナを買う。バナナってほんとうに安いのに栄養があって、好きでいられたらきっと毎日たべているだろうな。ふだん買わないから、かごの中のバナナのほうもよそよそしい顔をしている。おもっていたよりも、重い。
家に持ち帰ってほかのものを冷蔵庫へ入れていく中で、バナナを冷蔵庫にいれるべきなのかどうかもよくわからない。じっくり見て、ほんとうに完成された果物だなと感心する。手もよごれないし、むくときもすこしたのしい。神さまはバナナを楽しみながらつくっただろう。そのままひとつ食べることにした。
味は、しっている。ふうん、変わっていないんだな、という感じ。きっとあしたからはパウンドケーキになったり、砂糖とバターでソテーされたりするだろう。触感は、似ているものを頭の中でさがしてもみつからない。
そもそも、わたし前にもこんなふうに、わざわざバナナを買ってきてたべたような気がする。たべているうちに記憶がよみがえってくる。前の時は、ほんとうにバナナの皮を踏んづけるとすべるのかどうかをひとりで試したのだった。味よりもじぶんのほうが変わっていないことに気がついてこわくなる。
それでも、にがてなものをにがてだと決めつけないで、ときどき試してみるのはいいかもしれない。しらないあいだに、じぶんのほうが変わっているかもしれないから。
そういえば、さっきしらべた質問の回答によると、サルのあまり知られていない好物は昆虫だという。 “ セミがまちがってサル山に入ると、あっというまにたべられてしまう”らしい。ドンキーコングがセミを集めて冒険する物語だったら、売れていなかっただろうな。