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2F/当番ノート

暮らしのノイズ6:花を生ける

当番ノート 第49期

わたしは花の名前をあまり知らない。その理由にはなんとなく心当たりがある。小さいころから、道を歩いていたりして名前がわからない花を見かけたとき、いつもそれを教えてくれる母や祖母がいたからだろう。

教わった一つひとつをきちんと覚えようとしなかった。心のどこかでまた聞けばいいとおもっていたのかもしれない。聞き覚えのある花と実際の名前を一致させていただけ。 わたしは金木犀の匂いがどれなのかも、いまだによくわからない。

小さいころから母はなんでも知っていたし、わたしは質問をし続ける子どもだった。わからないことがたくさんあった。それでもわたしはいつかじぶんも母のようにすべてを知るのだとおもっていた。けれどもわたしは、大きくなっても花のことを知らなかった。祖母の家の庭には花がたくさん咲いている。母も同じように家で花を育てた。わたしはじぶんを大切にしているように装いたい気分のときだけ、きまぐれに切り花を買う。

昔住んでいた家の和室に、桐の板に墨で名前が書かれたものが置かれていた。気になって何か聞いたら、母が華道を習っていたときのものだという。教室を開くこともできるのだと話してくれた。

ふとそれを思い出して、母に生け花をやってみたいと持ちかけた。そうすると、すんなり話が進んで教わることになった。それほど高くない花器を買った。剣山は祖母のものを使わせてくれるという。母がハンドバックの中からむき出しになった剣山を取り出したときはすこし笑ってしまった。あきらかにあぶないけれど、わたしみたいだなとおもった。

練習として、祖母の家の庭に咲いている椿と雪柳、水仙を生けることになった。母がお花を習っていた何十年も前に持ち帰った椿の枝が、そのまま育った木らしい。時間の流れにくらくらする。いくつかをもらい、実家へと向かう。

昔から、こうしなさい、ああしなさいとあまり言われたことがない。間違ったことをしていても、母は早急にそれが間違いだと決めつけようとはしなかった。「まあ、はじめは好きにやってみてね」という母の隣で、基本のことと、避けたほうがいいことだけをいくつか聞いて、やりはじめる。

生けはじめると、むずかしい。どうしても平面で考えてしまうせいか、全体に奥行きがあまり出ず、動きがない。足りないものがはっきりわかるのに、どうすればよくなるのかがどうにもわからない。母に教えを乞うと、こうしてみたらと見せてくれた。それだけであきらかによくなる。

しばらく試行錯誤したあと出来上がって満足していたら、帰るときには生けた花をひとつずつ剣山から取り、もう一度家で生けなおすのだという。すこし考えたらわかることかもしれないけれど、今まで想像もしなかった。生け花教室で教わったあとは、みんな水がこぼれないように慎重に家まで持ち運ぶのだとばかりおもっていた。

拍子抜けしながらも、今度は家に帰り、ひとりで生けてみる。わたしは写真を撮ってそれ通りにしたけれど、デジタルカメラのない時代はメモをしたり、記憶したりしていたのかな。わたしはあまりに便利すぎる世界にいる。

生け花を置くと、ぱっと部屋が華やかになった。できるだけ部屋をきれいにしていようとおもえる。そんなふうに一つひとつが作用して、わたし自身も少しずつ変容していく。

「死なせないで、生き続けるようにする」。祖母が育てた花と、母から教わる生け花。生ける(活ける)という言葉の意味をしっかりかみしめながら、またはやくやりたいなとおもった。

冬日さつき

冬日さつき

校閲者、物書き。
新聞社やウェブメディアなどでの校閲の経験を経て、2020年からフリーに。小説やエッセイ、ビジネス書、翻訳文など、幅広い分野に携わる。「灰かぶり少女のまま」をはじめとした日記やエッセイ、紀行文、短編小説などを電子書籍やウェブで配信中。趣味のひとつは夢を見ること。

Reviewed by
Maysa Tomikawa

身近な存在のことほど、よく知らないことってある。わたしにも思い当たる節があるし、「うちもやわ」って、内心みんな思うんじゃないだろうか。それに、自分が経験する立場になってようやく、「あ、これってこういうことだったのか」って、後から身近なものや人のことを、今までよりも少し深く理解できるようになったりもする。

人から人に伝わっていく知識って、すぐに生活の役にはたたないものもある。そういう役にたたなさそうなものが、少しずつ自分の中で育って、根を深く伸ばすうちに、かけがえのない知識になることも少なくない。そこで、それまではきちんと意識していなかったことを後悔したり、もっと早くに気づけばよかったと思ったり、いまではもう話したりできないことや人について考える、思いを馳せる。そういう気持ちも、とてもリアルな人間の本質だと思う。


こんな言い方をするのはとてもおこがましいんだけれど、冬日さんが、お花を生けることによって、今までは見えていなかったことに気づけたのって、すごく尊いことだと思う。そして、間に合ってよかった、とも思う。

わたしは間に合わなかったから。祖父母に教えてもらったことで、今になって確認したいことが山ほどあるのに、もう確認のしようがない。曖昧で名前のない花や、動物の名前、物語、道具の名前、場所の名前、祖父母の胸の内について、祖父母の経験について、無数の確認したかったことがぼんやりと根っこにぶら下ってる。それらのぼんやりした知識や理解でさえも、わたしの肥やしにはなる。でもね、曖昧じゃないほうが、きっときっと生き生きするんじゃないかと思う。だから、どうか、「死なせないで、生き続けるようにする」ことができますように。お花と、その周辺にある記憶と、知識が、この先もずっとずっと生き続けることができますように、って祈らずにはいられなかった。

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