6時間28分。ある日の日曜日、スマートフォンに表示された「一日の使用平均時間」だという数字に、わたしはとてもおどろいた。じぶんのなかでもそこまで利用している感覚はまったくなかったからかもしれない。
この時季はいつもなんとなく調子がわるい。新社会人や新入生があふれ、みんながまっとうに見えて、じぶんはどこか、べつの星から来た人なのではないかとおもう。どこかに属することをできるだけ避けてきた人生が、とんでもなく間違っていたことのように感じてしまう。ふだんじぶんの生き方をどのように愛していても、春の生温かいぬくもりはわたしにとって正しくきびしい。
冬がすこしずつ終わりはじめたのと同時に、夜、わたしはうまく眠れなくなった。となりに眠る人のことを考えると電気をつけるわけにもいかないし、べつの部屋に行って睡眠をほとんど放棄するわけにもいかない。横になって目をつむるだけでも良いという情報を得て、そのようにする。それでも何時間も平気で眠れない。居心地がわるくなって、スマートフォンを手に取る。だいたい午前1時ごろにベッドに入り、完全に眠りに落ちるのは朝4時すぎという日々が続いていた。
そういうときにスマートフォンで眺めるのは、SNSが多い。なにしろもう疲れていてはやく眠りたいせいで、本を読んだり、動画を観たりする気力がないのかもしれない。おそらく6時間28分の半分以上が、この時間に充てられていたのだろう。眠れない夜に、Twitterにあふれる言葉をどんどん身体に通過させる。攻撃的なものや、目にしたくないものも多く含めて。
人によるとおもうのだけれど、一昔前、わたしはインターネットと現実をしっかりと分けていて、それぞれに差異がなくとも、混同することをできるだけ避けていた。現実と地続きになっている今のSNSとはちがい、別の場所で活動しているという感覚があったかもしれない。インターネットには現実世界では簡単に得られないような情報があり、それらを吸収することがとにかくたのしかった。それこそわたしは一日の3分の1以上それを見るのに費やしていたとおもう。そのときにこの数字を見たとしても、こんなふうにおどろいたりしなかっただろう。なぜならその実感がきちんとあったからだ。いまのわたしは、6時間28分にほとんどおぼえがない。そしてこの数字は、わたしの眠れない夜をあきらかに表している。 日曜日にその通知を受け取ったあと、すこし考え込んだ。
SNSを見ることがわるいのだとおもうわけではない。いまのインターネットは有益でないと言いたいわけでも決してない。ただ、無意識に、ほかにやることがないという理由だけで指を画面にすべらせている。次の日、その間にどんな情報を得たのか、なにひとつ思い出せないし説明ができない。眠れない時間そのものがどろどろと溶けて、単純に失われている。
そこで、眠れないときにSNSを眺めるのをやめるというルールを、明確にじぶんに加えることにした。その代替として、たとえ疲れていたとしても、となりで眠る人の邪魔にならないよう、小さな明かりをつけて本を読む。まずは、ベッドルームにスマートフォンを持ち込まないというふうにしたのだけれど、目覚まし時計として利用していたこともあって、不便だった。だから、部屋には持っていくけれど、枕元には置かずに、すこし離れたところに置いておくことにする。
一日が終われば、眠れない夜がやってくる。何日か試してみて、いまだに上手に眠れなくとも、目が覚めると前よりもすこしは回復をしているような気がした。
こういう明確なルール決めは、わたしに合っているようだった。人によっては、むしろそんなふうに決めてしまうと逆にうまくいかないという人もいるだろう。眠れない時間の総量はおそらく変わっていない。スマートフォンでSNSを見ている時間を、ただ本に置き換えたというだけのこと。だけれど、わたしはその時間に読んだ本の内容を次の日だれかに説明することができる。それは大きな違いのように感じた。
眠れない春の夜に読んだ物語が、暮らしのノイズとしてわたしにどんな作用をもたらすのだろうか。次の日曜日に来た一日の使用平均時間の知らせは、きっかり半分の3時間になっていた。