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2F/当番ノート

暮らしのノイズ8:ふつうの生活

当番ノート 第49期

世界がすこしずつ混乱しはじめて、しばらく経つ。年明けにはアメリカとイランの間で戦争がはじまるかもしれないとざわめいていたのに、そんな雰囲気はどこか遠くへ。SNSでは真偽のわからない情報があふれ、何を信じればいいかもはやだれにもわからない。

ここで暮らしのノイズというエッセイを書き始めた先月から、世の中は大きく変わっていった。

この雰囲気をもって思い出すのは、東日本大震災のときのこと。毎年3月11日になると、いろんな人がその日のことを話し始める。それぞれみんなが何をしていたか、はっきりと覚えている。人の数だけの2011年3月11日があるという、あたりまえの事実を思い知らされる。

あのとき、生活ができないほどの甚大な被害を受けなかった人たちのあいだで、「できるだけふつうの生活」をしようという動きがあったのを覚えている。できるだけふつうの生活をすることが、復興の手助けになるということだ。それでもわたしは、その行動が悲しみに暮れている人を置き去りにしてしまわないかと、なにが正解なのかわからないでいた。それはたいへんなきれいごとで、偽善者にしかすぎないのかもしれないけれど。

そしていまはまたすこし、状況がちがう。「できるだけふつうの生活」をすることが、一概に推奨されているとはいえない。ふつうの生活の中にある娯楽は、政府の言う「不要不急」であることが多いからだ。フランスのマクロン大統領は国民に向けた放送の中でいまを戦時中だと例えた。

年明けからフリーランスとして仕事しているだけれど、じわじわと影響が出てきている。米企業の休業のお知らせについての翻訳校正をしながら、他人ごとではないのだと身に知らされた。進行していたプロジェクトは停止したまま。ある日突然、仕事がなくなることだって想定ができる。6月に予定していたイギリスへの旅行も、キャンセルした。

失われることで初めて実感するのが自由なのだとおもう。この先良くなるか、もっと悪くなるか、それさえもわからない日々の中。日々の暮らしがこんなにももろく、突然なくなってしまうというのは、どこかで気がついていたけれど考えないようにしていたことだった。

ふつうの生活について考える。あらゆるものが制限されても、その中でできることを探す。暮らしのノイズをみつけるようにいつもと違うことをしてみる。それもいわば、ふつうの生活のひとつなのだと、いまの状況の上ではそうおもえる。

きょうは夜ごはんの準備をするとき、もやしのひげをひとつずつ取ってみた。そのほうが断然おいしいと聞いたことがあったからだ。わりと時間のかかる作業ですこしずつはじめたことを後悔してくる。それに、ほんとうにひげを取ったもやしのほうがおいしかったとして、もうひげのあるもやしでは満足できないようになるかもしれないと考えるとこわくなった。前回のエッセイで「じぶんはルールを守るほうが向いている」というようなことを書いたけれど、それはわたしが常にじぶんで定めたルールにしばられてしまうというおそろしい性質をもしめしている。

出来上がったもやしのナムルはほんとうにおいしくて、その時間の価値があるものだとはっきりわかった。それでもひげがあるほうを満足しないほどではないだろう。そもそも、じぶんの心配の8割くらいは杞憂なのだ。

これからも気をたしかにいつづけること。一週間、一カ月先のことさえもわからない。それでも日常はつづいていく。それでも、わたしたちは、どんな暮らしの中にも光をみつけていけますように。

冬日さつき

冬日さつき

校閲者、物書き。
新聞社やウェブメディアなどでの校閲の経験を経て、2020年からフリーに。小説やエッセイ、ビジネス書、翻訳文など、幅広い分野に携わる。「灰かぶり少女のまま」をはじめとした日記やエッセイ、紀行文、短編小説などを電子書籍やウェブで配信中。趣味のひとつは夢を見ること。

Reviewed by
Maysa Tomikawa

春なのに、どんよりするような、言葉にしがたい漠然とした不安が漂っている。空の青さや日差しのあたたかさにそぐわないような、そんな先行きの見えなさが視界をくもらせているみたい。

今の状況で、東日本大震災のあとを思い出す気持ち、とてもわかる。でも、わたしにはもっともっと大きな、先行きの見えなさがある気がする。今ほど、「世界中」という言葉がぴったりだと思うことってなかなかないけれど、本当に世界中が混乱してる。今はまだ普通の生活に近い状態だけれど、1週間後、1ヶ月後、どうなるのか正直想像がつかない。これから経済はどうなる?わたしたちの生活はどうなる?人々の生活は?健康は?安全は?お金は?

ほんとうに、このさきどうなってしまうんだろう。

このさき、混乱がわたしたちの日常になるようなことがあるかもしれない。むしろ、すでに何年も何十年も混乱が日常になっている人々だっているのだよね。でも、あらゆる難しい局面で、暮らしのなかに光をみつけだしていくことが、たぶん人の強さでもあり、しぶとさでもあるのだと思う。それこそ、もやしのひげをとったり、擦り切れたセーターを繕ったり、いつもより少し丁寧に台所を磨いたり、大事な人に連絡をとったり、懐かしい歌をうたってみたり、埃をかぶっていた本を読んでみたり。少なくとも、わたしはそう信じたい。

「わたしたちは、どんな暮らしの中にも光をみつけていけますように。」

ほんとに、ほんとに。わたしも、そんな祈りをここに重ねたい。

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