世界がすこしずつ混乱しはじめて、しばらく経つ。年明けにはアメリカとイランの間で戦争がはじまるかもしれないとざわめいていたのに、そんな雰囲気はどこか遠くへ。SNSでは真偽のわからない情報があふれ、何を信じればいいかもはやだれにもわからない。
ここで暮らしのノイズというエッセイを書き始めた先月から、世の中は大きく変わっていった。
この雰囲気をもって思い出すのは、東日本大震災のときのこと。毎年3月11日になると、いろんな人がその日のことを話し始める。それぞれみんなが何をしていたか、はっきりと覚えている。人の数だけの2011年3月11日があるという、あたりまえの事実を思い知らされる。
あのとき、生活ができないほどの甚大な被害を受けなかった人たちのあいだで、「できるだけふつうの生活」をしようという動きがあったのを覚えている。できるだけふつうの生活をすることが、復興の手助けになるということだ。それでもわたしは、その行動が悲しみに暮れている人を置き去りにしてしまわないかと、なにが正解なのかわからないでいた。それはたいへんなきれいごとで、偽善者にしかすぎないのかもしれないけれど。
そしていまはまたすこし、状況がちがう。「できるだけふつうの生活」をすることが、一概に推奨されているとはいえない。ふつうの生活の中にある娯楽は、政府の言う「不要不急」であることが多いからだ。フランスのマクロン大統領は国民に向けた放送の中でいまを戦時中だと例えた。
年明けからフリーランスとして仕事しているだけれど、じわじわと影響が出てきている。米企業の休業のお知らせについての翻訳校正をしながら、他人ごとではないのだと身に知らされた。進行していたプロジェクトは停止したまま。ある日突然、仕事がなくなることだって想定ができる。6月に予定していたイギリスへの旅行も、キャンセルした。
失われることで初めて実感するのが自由なのだとおもう。この先良くなるか、もっと悪くなるか、それさえもわからない日々の中。日々の暮らしがこんなにももろく、突然なくなってしまうというのは、どこかで気がついていたけれど考えないようにしていたことだった。
ふつうの生活について考える。あらゆるものが制限されても、その中でできることを探す。暮らしのノイズをみつけるようにいつもと違うことをしてみる。それもいわば、ふつうの生活のひとつなのだと、いまの状況の上ではそうおもえる。
きょうは夜ごはんの準備をするとき、もやしのひげをひとつずつ取ってみた。そのほうが断然おいしいと聞いたことがあったからだ。わりと時間のかかる作業ですこしずつはじめたことを後悔してくる。それに、ほんとうにひげを取ったもやしのほうがおいしかったとして、もうひげのあるもやしでは満足できないようになるかもしれないと考えるとこわくなった。前回のエッセイで「じぶんはルールを守るほうが向いている」というようなことを書いたけれど、それはわたしが常にじぶんで定めたルールにしばられてしまうというおそろしい性質をもしめしている。
出来上がったもやしのナムルはほんとうにおいしくて、その時間の価値があるものだとはっきりわかった。それでもひげがあるほうを満足しないほどではないだろう。そもそも、じぶんの心配の8割くらいは杞憂なのだ。
これからも気をたしかにいつづけること。一週間、一カ月先のことさえもわからない。それでも日常はつづいていく。それでも、わたしたちは、どんな暮らしの中にも光をみつけていけますように。