最近はふだん一緒にいる人のおかげで、ほんとうにいろんなところへ旅をするようになった。今まであまり一人旅をしてこなかったのは、じぶんの頭の中のうるささと対峙したくなかったからかもしれない。ほかの人のことがわからないからどうにも比較はできないけれど、毎日、起きたときから眠りに落ちる瞬間まで頭の中にはっきりとした言葉がたえず浮かんでいる。暮らしのノイズというのは「非日常を取り入れる」というテーマのためにつけたタイトルだけれど、これはまさに言葉通り、わたしにとっての『暮らしのノイズ』なのだった。
旅に出て、いろんなものを見て、どこまで遠くへ行ったとしても、つねに何かを考えてしまうような気がする。しかもそのほとんどが、じぶんの間違い探しみたいなものだからたちが悪い。とどまることのない内省は、どこにいってもじぶん自身からは逃れられないという証明におもえて、息がつまる。
何もすることがなかったころ、市の体育館でやっているワンコインのヨガ教室に参加をしたことがある。広い柔道場で、いろんな年齢の人たちがいた。先生はわたしたちに「きのうとの違いを知るだけでいいんです」と毎回話した。じぶんの中の、ほかの人はだれも気がつかない小さな変化に目をむける。柔軟であるために必要なのは、やわらかさではなく、しっかりとした基盤なのだと感じた。
そのときのことを思い出して、午前2時、ふと瞑想をしてみようと思い立った。 まずはグーグルでやり方を検索して、 そこらへんの紙にペンで書き留めていく。「頭の中に浮かんだ考えに気づいて、それをきちんと見送る」という手順のひとつは、いかにも、わたしが長いあいだ求めていたことかもしれない。
調べた結果をすべてうのみにして、さっそくやってみる。それらしくお香を焚いて、ヨガマットに座った。この瞬間にだれも起きてこないことを願いながら、座禅を組み、呼吸だけに集中する。自覚している悪習のひとつなのだけれど、わたしはふだん、呼吸がとても浅い。空気を吸いきるまもなく吐いてしまって、無意識にいつもすこし溺れている。いまはただ、空気を吸って、吐く。それだけのことをする。じぶんの中にあるたくさんのスイッチを、ひとつずつ切っていくような想像をした。
打ち消しても打ち消しても思い浮かんでくる言葉の多さに、こんな騒音の中にわたしは存在するのだと、とても同情的な気持ちになる。狂わずにいるじぶんを称えるべきかもしれない。雑念が思い浮かんでも、それに気づき、すぐに手放す。数分それをつづけると、腹式呼吸の効果からか、体がじんわり温かくなってきた。ふだんは冷たい足先にまでしっかり熱が届いているような気がする。
あらかじめ15分のタイマーをかけておいた。アラーム音はできるだけやさしい音をえらぶ。続けていくうちに、ほんのすこしコツをつかんできたかもしれない。頭の中を完全に空っぽにするのはむずかしいけれど、スマートフォンが時間を知らせたころには、そのうるささからは、ほんの少し遠ざかっていた。
調べたところによると「気づく」というのは、仏教における瞑想の技術としてとても基礎的なことなのだという。ヨガの先生が言っていたことも、それに近いようにおもった。日常を過ごしていると、ドラマティックなことばかりに目がいって、なんでもないことは通り過ぎていってしまう。じぶんのことばかりを考える脳のリソースをすこし解放したら、もっと日々の解像度を上げていくことができるかもしれない。
早起きや運動のような身体習慣が定着するには、3カ月継続することが大切らしい。瞑想をまずはこうやって非日常として取り入れて、すこしずつそれが日常になっていくといいな。わたしの頭の中がいまよりももっと静かになったときには、ひとりでどこか遠くへ旅行してみたいとおもう。