熱が出ると、決まって同じ夢を見る。まぶたできちんと覆い隠された暗闇の中にいろんな色の光の線が伸びていく。人より夢を見るほうだけれど、これはほかの夢とは決定的にちがうようにおもう。夢の中にわたしは存在しない。それはまるで、スクリーンセーバーのような。
その夢から目を覚まして、毛布にこすれた肌に痛みを感じた。布団にもぐってもすこし寒い。体温計で熱を測る、37度3分。いつもならふつうに過ごしているような数字だけれど、平熱が低いことと、はやっている恐ろしい病のことを考えて、母との昼の予定をキャンセルした。きょうはちょうど、母の誕生日だった。
そこからさらに5時間眠り、午後2時頃に起き上がった。いくつか仕事をしていたら、母が差し入れをしてくれるという。もともとお昼を食べたあと、祖母がつくった母のための赤飯とケーキを届けに来てくれる予定だった。だるさもすこしましになって、ほかの症状もない。たまっていた疲れが出ただけだろうと判断をして、持ってきてもらうことにした。
そのあと母が持ってきたものは、わたしのすべてを見てきたような正解で、涙がこぼれるまえにいそいで帰ってもらう。
もらった赤飯とおかずをたべて、ソファに横になった。しばらくして、冷蔵庫にケーキがあることを思い出す。あしたにはいつも通りになっているだろうからと取っておくつもりだったけれど、食欲があるのなら、具合のわるいときにたべるケーキも非日常のひとつとしてたのしいかもしれない。冷蔵庫から取り出し、食べ始める。キウイといちごがちりばめられたケーキ。小さいころからたべている味に安心する。
たべた後のお皿とフォークをひとりで洗いながら、祖母から母へ、母からわたしへと連なる愛を、わたしがぴたりとだれかに渡すのを止めてしまっているような気がして、ほんのすこしさみしくなる。交換日記をいつまでもじぶんが持っているような感じ。
小さい頃、わたしはつかれるとすぐに首のあたりが腫れて、熱が出たらしい。大人になってから首の腫れを相談したとき、母はその話をしてくれたけれど、わたし自身はそのことをすっかり忘れていた。わたしが覚えているのは、熱の日にくり返し見た夢のことだけ。
じぶんの記憶にないことを、誰かがおぼえている。べつに、それは母しかできないというわけじゃない。大切な人たちが、わたしさえも忘れてしまっているわたしをおぼえている。だれかの記憶に残るということ。いいことばかりであるとはかぎらないけれど、わたしも大切な人たちのことを、ささいなことさえも、いつまでもおぼえておける。それは愛のひとつでもある。
歯を磨いて、朝から着ている同じパジャマのまま、またベッドにもぐる。もうあの夢は見なかった。