2018年、再び飛行機に乗り遅れた。
飛行機に乗り遅れるのはこれで三度目だった。
最初は高校3年生のとき、大学受験を終えて東京から帰る便だった。宿があった飯田橋から、羽田空港に向かう経路の選択を間違えた。多分、各停とか快速とか急行とかいった電車用語への理解がなかったので、どこかで遅い電車に乗ったのだろう。空港に着いた時には定刻25分前で、保安検査場が締切られていた。
振替の便の席を翌朝に用意してもらえたのだけれど、未成年を空港内に深夜留めておくわけにはいかないと空港の人に言われて、穴守稲荷の古い民宿で一泊することになった。夜中に突然学生服の少年が泊まりに来て、きっと宿の人も驚いただろう。
その時は他人に気を遣う余裕もなかったし、宿の人とどんな会話をしたか、何という名前の宿だったかも覚えていない。
今回はイギリス、ロンドンの北にあるスタンステッド空港から、フランスのビアリッツ空港まで飛ぶ予定だった。
乗り遅れた原因はまたしても電車だった。ロンドン市街から空港までの経路が、地下鉄の工事の影響で一時的に変わっていた。そのことに地下鉄の車内アナウンスで気づいて、急いで電車を乗り継ぎ、出発時刻に搭乗ゲートまで辿り着いたものの、窓越しにブリッジが機体から離れていくのを見送るという挫折を味わった。
誰もいない搭乗ゲートの前で、ビアリッツからビルバオまで、フランス南西部からスペイン北東部にまたがるバスク地方を横断する旅の目論みが、脆くも崩れようとしていた。バスク地方は、系統的に孤立した言語といわれるバスク語に象徴されるような、その独特の文化で人気の旅行先である。フランス側は田舎のかわいらしい伝統的な住宅の街並みやリネンの織物、シードル、スペイン側はサンセバスチャンに代表される美食、それからビルバオのグッゲンハイム美術館やエドゥアルド・チリダの彫刻といったアート。それらを丸ごと楽しめる旅程が組まれていた。
もはやフランスに行くのはやめて、明日か明後日のスペイン行きの便を予約して、街に引き返そうかと諦めモードでいたら、3時間後にロンドンの南にあるガトウィック空港からフランスのボルドーに飛ぶ便に空席があるのを見つけた。ボルドーならフランスでも南西だから、頑張れば明日には元の旅程に追いつけるかもしれない!と、勢いでその便を予約し、猛然と来た道を引き返した。一本でも電車の乗り継ぎを失敗すれば、再び乗り遅れるギリギリのタイミングだった。
ボルドーに着いたのは深夜だった。ボルドーと言えばワイン。しかし、やけ酒をしようにも、日曜日のフランスは店が開いていない。まして夜中。世界遺産の市街にも観光客の姿はほとんどない。ただ、年中無休のケバブ屋だけは煌々と明かりを灯して営業している。
僕はロンドンの地下鉄から何も食べずにやってきたので、空腹の絶頂にあった。せっかくボルドーに来たのだから、その甲斐がありそうな食べ物を探して無人の街路をさまよい、ただ1か所人が取り巻いているそのケバブ屋の前を、何度も見て見ぬ振りをして行き過ぎた。しかしついぞ他に開いている店は見つけられず、ケバブ屋に屈した。そのケバブの味はどこにでもあるケバブだった。再び無力感に苛まれ、明朝の高速バスに乗るのをやめて、ボルドーにもう1泊することに決めた。
それで翌日は朝から川辺のマーケットに行って、ワイン博物館に行って、ワインバーに行って、1日中ひたすらワイン三昧にして、次の早朝、二日酔いで高速バスに乗り込むことになった。ボルドーからフランスのバスク地方最大の都市のバイヨンヌまで、バスで4時間弱。二日酔いの頭で、バイヨンヌから元々滞在予定だった田舎町のサン=ジャン=ド=リュズを経由してスペイン国境まで、タクシー、列車、バス、と正解なのかわからない経路を辿る。赤と白の三角屋根が並ぶバスク地方の田舎の風景を「本当はあんなおうちに泊まるはずだったのに」と眺める旅。
日が沈まないうちに、フランス側の国境の街アンダイエから列車に乗って、予定していた旅程に追いついた。
国境を越えると、列車はスペイン側の国境の街イルンに停車する。車窓から見えるイルン景色は、コンクリの高層アパートが視界を遮るように立ち並んでいる。のどかに木づくりのおうちが並んでいるフランス側とは打って変わって、近代的な風景だ。
旅の軌道が正常に戻り、いい加減二日酔いからも醒めて、列車の中、当初の旅の目的について整理し直し始めていた。食べ物と美術館とレコード屋。レコード屋では日本でお目にかかれないようなバスク出身のアーティストのレコードを探す。イルンは、今回の目当ての1つのハードコアパンクバンド、Lisaboの出身地だった。
イルンで降りてみるべきだろうか?日没までまだしばらくある。イルンといえば、バスクのパンクカルチャーを主導するカリスマ、フェルミン・ムグルサの街。その手の音楽に強い店があるかもしれない。いや、地元といっても田舎のレコード屋の品揃えというのはたかが知れているし、それにせっかく元に戻った旅程をまた自分から崩すのもどうなのか……
逡巡しているうちに、イルン駅のホームから列車は動き始めた。
イルンから30分で、終点のサンセバスチャンの街に到着する。
サンセバスチャンでの楽しみといえば、なんといっても旧市街のバル巡りで、ムール貝専門店とか、巨大なリブステーキしかメニューが無い店とか、イワシのピンチョス専門店とか、バスクチーズケーキ発祥の店とか、個性的な店が無数にあって到底食べ歩き飽かすことはできない。
観光客はみんな午前中から飲み食べ歩き、店が昼休憩で閉まっている合間に海岸線を散歩して、夕方また飲み食いに戻ってくる。そして観光客は夕方から深夜まで、何軒ハシゴできるか胃袋の限界との戦いに挑む。深夜のチーズケーキ屋では、戦いを終えて〆に来たのであろうおじさん達が、観想するような面持ちでしみじみとフォークを口に運ぶ姿を見ることができる。
到着から一夜明け、閑散とした昼下がりの旧市街を散策していると、Beltza Recordsといういかにも街角のレコードショップ然とした店を見つけた。突き上げられた黒い拳のマークが店のシンボルらしく掲げてあって、いかにもパンク色が強そうな店だ。
店内に入ると、意外にも品揃えの売りはジャズのレコードらしく、ジャズの棚が店内の面積の大きな割合を占めている。他にもジャンルごとに丁寧に棚が整理されていて、めぼしい棚を漁ってみるものの、目当てのLisaboはもちろん、これといったものを見つけることはできなかった。観光地のレコード屋だからといって、必ずしもその土地ならではのレコードが見つけられるわけではなく、どこでも流通しているような品物ばかりしか置いていない、ということは経験上よくあることだ。
やっぱりそんなもんだよなぁ、と、肩を落としつつ、これで最後にしようと思って入荷されたばかりのレコードの棚を漁っていると、見覚えのあるレコードを見つけた。“xabier lete”の文字とモノクロの髭面の男が黒い背景に浮かぶジャケット。確か旅行前に、バスクのアーティストについて予習しようと思って調べていた中で見かけたものだ。日本では見たことがないし、これが今回の収穫ということにしよう。そう思ってレコードを手に取りレジに向かった。
レジ前には強力な店主オーラを放つオヤジがいる。黒いTシャツから太ましい腕が伸びて、次々レコードを取り出しては検盤している。取り出すたびに腕の表面に筋が浮き、太いのは贅肉ではなく筋肉であることがわかる。そして手を止めては、盤面の隅々を焼き尽くすように睨み回している。店名の”Beltza“はバスク語で「黒」を意味するらしく、その名の通り、店主の髭も、眼鏡も、だいぶ後退した髪の毛の色も黒い。
僕からレコードを受け取った店主はジロリ、とこちらを見て、そのまま視線を落とすことなくレコードジャケットの上に指を突き立てた。説教でも始めそうな雰囲気に緊張が走る。
「良い選択だ。これこそ本物のバスク音楽だ。彼はここ、サンセバスチャンで生まれた歌手だ。」
褒めているのか、こちらがよく知りもしないレコードを買おうとしているのだと思って親切に教えようとしてくれているのか。
「ああ、調べたんだけど……」
僕がそう言いかけるのも構わず店主は喋り続ける。
「これは2枚目の作品だが、俺の中ではこれがベストだ。マジで最高だ。○△□×・・・・・・。」
店主は続けて4、5言、いかにそのレコードが素晴らしいのか喋ったようだったが、なまっていてよく聞き取れない。
「25ユーロ。」
店主はそう言って、レジ打ちをしていたもう一人の店員にレコードを渡す。
「30ユーロ?」
値札を見たレジ打ちが聞き返す。店主と歳はさほど離れていないだろう白髪のおじさんである。Tシャツは灰色。
「25ユーロだ。」
店主はひたすら自分で喋った末に、自分から5ユーロまけてくれた。
会計を済まして店を出るとき、キャップ、パーカー、ヘッドホンというDJ風情の出で立ちの若い客が「さっきのレコードが、なんだったって?」と、英語で店主に詰めかけていた。先ほどの店主の話が聞こえていたのだろう。
「本物のバスク音楽だ。」
店主は客に向かって、あっちに行け、というような手振りをする。
「売り切れだ。」
旅行はその後、予定していた通りにスペインのバスク地方最大の街ビルバオに向かい、再びロンドンを経由して元来た道を帰った。ビルバオには大きなレコード屋もあったけれど、これは!というレコードにはことごとく法外な値段がつけられていた。結局、旅を通じて目立った収穫はXabier Leteのレコードくらいだった。
家に帰り着いて、早速レコードをプレーヤーにかけてみる。
初っ端から、このレコードは暗い。鬱々とした暗さではなく、怒りを噛み殺しているような暗さだ。旅の疲れに、その重々しい歌声が乗っかって、堪えきれずに音量を下げてしまった。
レコードは1974年に発売されたものだ。当時のスペインはフランコ政権下で、バスク語の使用は禁止されていたとされる。1973年には、フランコ政権のバスクへの抑圧に武力で対抗していた組織「バスク祖国と自由(ETA)」が、フランコの右腕だったカレーロ・ブランコ首相を爆殺する事件を起こしている。1975年にフランコ政権が崩壊する直前、このレコードにも抑圧への抵抗の意思がはっきりと刻まれている。
レコード屋の店主はせいぜい50代前半ぐらいだっただろう。店主は小さい頃に聴いたこのレコードを、現在のバスクのパンクミュージックの源流にあるものとして捉えているのかもしれない、そう勝手な理解をし始めたところで、レコードは最後の曲に差し掛かる。突然、それまでの語りかけるような重たい歌い口から、みんなで一緒に歌おうと誘うような、明るく軽やかな歌い口に変わる。
「エ〜ウスカラ〜 エ〜ウスカラ〜」
という口ずさみ易いメロディ。明らかにそれまでの歌とは別物だ。
この最後の曲”Kontrapas”は、バスク語で書かれた初めての書物とされる『バスク初文集』に納められている詩に曲を付けたものらしい。
『バスク初文集』は、16世紀の司祭ベルナト・エチェパレが自らの散文、詩などをまとめたもので、バスク語で出版された書物がなかった状況をエチェパレ自身が憂いて出版に漕ぎ着けた。最後にバスク語を讃える2つの歌が収められており、うち一編が”Kontrapas”である。
『バスク初文集』は各国語に翻訳されていて、日本語訳も2014年に平凡社から出版されている。それによれば、”Kontrapas”のうち、Xabier Leteが歌っている部分に当たる最初の4節は、以下のようになるらしい。
バスク語よ おもてへ出でよ
ガラシのくにが
どうか祝福されんことを
バスク語が必要としている
地位を与えたのだから。
バスク語よ
広場に出でよ。
ほかの誰もが思っていた
バスク語で書くことなどできないと
しかし今や証明された
彼らが間違っていたことが。
バスク語よ
世界に出でよ。
数ある言語の中でもお前はこれまで
少しも重視されてこなかった
しかし今こそお前は
全き栄誉を必要としている。
バスク語よ
全世界を闊歩せよ。
バスク語以外のあらゆる言語が
バスク語よりも高位に君臨していた
今こそバスク語が
あらゆる言語の上に君臨するだろう。
16世紀に出版されてから長らく忘れられていた『バスク初文集』は、19世紀半ばにフランスのボルドーで「再発見」される。その後1960年代、弾圧の中で自らの文化の復興を目指すバスクの人々の間で”Kontrapas”は広がっていった。当時のバスクの人々にこの詩がどれだけ勇気を与えたか、この4節を読む限りでも想像に余りある。そしてXabier Leteの歌は、親しみやすい曲をつけることで、この詩の存在をより広く知らしめることに貢献した。
1979年にバスク自治州の自治憲法が制定されてバスク語が公用語となり、バスク語で話し、学ぶことが普通になっていく社会の変化を、レコード屋の店主はリアルタイムで経験したに違いない。きっとこの歌も、何度も口ずさんだのだろう。
「バスク語よ 世界に出でよ。」
確かにレコードは海を渡り、ここ日本へ届けられた。
さて、『バスク初文集』の再発見がボルドーでなされたというのには、どうも所以があるらしい。『バスク初文集』に収められたもう一つのバスク語賛歌「サウトゥレラ」の日本語訳に、こんな一節がある。
ガラシに生まれた者がそうした願いを叶えたのだ
そしてまた今はボルドーに住むその友が
バスク語を最初に印刷したのは まさにそのお方なのだ
今 バスク人は皆 彼に恩があるのだ
ガラシはエチェパレの故郷の土地の名前。ボルドーに住む友というのは、ボルドー高等法院の検察官だったベルナール・レヘテという人物とされている。
エチェパレとレヘテがどのような経緯で交友することになったのかは明らかにされていないが、このレヘテが『バスク初文集』の出版を後支えし、『バスク初文集』はボルドーの印刷工房を通じて出版されることになったのだった。
「バスク語よ 世界に出でよ」
飛行機を逃してボルドーに行き、サンセバスチャンで手にしたレコードの「コントラパス」に惹かれ、『バスク初文集』を手に取って。まるで、エチェパレの祈りに操られているように。