『ペルシャ猫を誰も知らない』は現代のイランのインディロックシーンを描いた稀な映画だった。ロック、メタル、ヒップホップといった西欧の音楽の演奏の許可が下りないイランで、地下室や、農場や、工事現場で密かに鳴らされていた音楽を世界に開いた。
バンドマン役で映画を主演したアシュカンとネガルは実際にイランで音楽活動をしていたが、映画の撮影直後にイギリスへ亡命している。映画の撮影は当然ながら政府の許可を得ていなかった。監督のバフマン・ゴバディもまたこの作品の撮影後、亡命生活を続けている。
ゴバディ監督は、イランの巨匠アッバス・キアロスタミ監督の『風が吹くまま』で助監督を務めている。イランの片田舎に伝わる独特の葬儀の風習を取材しに来た男が、村の誰かが死ぬのを待っている。しかし、もうすぐ往生する噂の老人がなかなか死なないまま徒に時間は過ぎ、迫る仕事の締切に男は焦りを募らせる。宙吊りの時間、やる方のない男の苛立ちをよそに、画面に映るイランの田舎の風景は常に淀みなく美しい。大地一面、黄金色の麦秋。
『風が吹くまま』は、僕のささやかな映画体験の中でも一番好きな映画なので、イランの映画は新しく見つけるたびに観るようにしているのだけれど、イランの風景と言えば真っ先にこの麦畑を思い浮かべてしまう。滑らかな黄金の絨毯。これまでの人生で映画のほかにイランから貰ったものを考えてみても、やっぱり同じ色が目に浮かぶ。小学生の時から10年以上にわたり、僕はペルシャ猫らしき猫と友達だった。その猫はちょうどこの麦畑のような毛並みをしていた。
昔、実家の隣家でペルシャらしき猫が飼われていた。毛並は穏やかな陰影の金色をしていて、福岡のどこかで拾われて来た黄金の捨て猫だった。そもそも出自は不明だったのだが、はじめはその豊かな毛並みからペルシャ猫だと思って飼われているうちに、ペルシャではなくメインクーンという種らしいことがわかっていった。
隣家にやってきた時はまだ子猫と言ってよい大きさだったけれど、ふさふさとした毛並みと涼しい目を持ち、すでに愛らしさに気品が優っていた。拾主は何を思ったのか猫に「モエ」という名前を付けていた。モエがやってきた当時はちょうど世間的に「萌え」という言葉がオタク用語として認知され始めた頃だったので、「もえ〜 もえ〜」というモエを探す隣家の奥さんの声が聞こえるたび、僕はふざけた名前だと思っていた。
ペルシャ猫といえば元来大人しく、成長するとイエネコに落ち着くもので、外でやんちゃをするのは子猫のうちということらしいのだが、モエは年を重ねても外遊びが止む気配がなく、むしろ体が大きくなるのに従ってますます活発になっていった。
我が家の庭には、二階建ての家屋よりも背が高い松の木があって、近所にいるクロネコやブチネコやシマネコといった他の野良猫や飼い猫たちにとっては、登るか登らまいかと逡巡した末に諦めるか、意を決して登るも降りられなくなってヒトに介助されるか、というアトラクションになっていた。成長したモエは、ある時からこの木に軽々と登り、鳥を捕まえて人家の玄関に放置するという、異次元の身体能力を披露し始めた。一帯の猫社会には衝撃だったに違いない。
ご近所を荒らしまわる一方、モエは飼主には律儀で愛想良い。日暮れになると隣家の主人の帰宅を玄関の前で待つし、エサをあげようと隣家の奥さんが「もえ〜」と呼べば返事をして帰ってくる。そして何故か、たまに我が家の父の帰宅も玄関前で待機する。ただいまついでに家の中に入ろうとするのである。
モエは我が家に入ると、決まって勢いよく2階に駆け上り、ベランダに続くサッシの前で「開けろ」と言わんばかりにニャーニャーと鳴き始める。サッシを開けてやると、何をするでもなくベランダで小一時間佇み、南の空を眺める。満足すると再び「開けろ」と鳴き始め、一階のリビングでくつろいだ後、そそくさと玄関から帰っていく。
この間、こちらには散々命令するくせに、一貫して我々家族からの「もえ」という呼びかけには答えない。障子や柱で爪を研ごうとするのを静止すると、抵抗するでもなく冷めたように身を翻す。まさに傍若無人だった。隣家の奥さんは、その横暴ぶりを我が家に度々謝りに来ていたのだが、ある時、「モエがいつも無礼を働いているが、どうもペルシャではなくメインクーンという、賢くて運動能力が高い種らしい。やんちゃも多いが本人に悪気はないので許してやって欲しい。鳥の死骸も本人はお供物のつもりだろう。」と教えられて、我が家は初めてメインクーンなるものを知った。
ちなみに名前のせいでメスだと思われていたモエが実はオスであることも、奥さんから後々教えてもらった。
メインクーンという種の起源については、実のところ誰も知らないらしい。アメリカのメイン州が原産とされるが、その祖先については所説ある。
伝説では、マリーアントワネットが飼っていたトルコ原産のアンゴラ種の猫が、処刑を免れて密かにアメリカに運ばれたのだとか、イギリスからアメリカに寄港した「クーン船長」の飼猫のペルシャ猫(又はアンゴラ)であるとか、アメリカに遠征した北欧のバイキングの飼猫だとか。ちなみにDNAの配列から類推される近縁関係では、北欧原産のノルウェイジャンフォレストキャットが近いとされていて、残念ながらペルシャ猫が祖先である公算は高くないらしい。
イランや北欧に続く東の空でも、海を隔てアメリカがある西の空でも、拾われた福岡を望む北の空でもなく、南方に黄昏ていたモエ。彼は南の空に何を見ていたのだろうか。
『ペルシャ猫を誰も知らない』で主演を務めたアシュカン・クーシャネジャドは「アッシュクーシャ」として世界に知られるロンドンのエレクトロニックミュージックシーンの先鋒になった。アシュカンはテヘラン音楽院で学び、シガーロスのような欧州のロックに憧れ、亡命したロンドンで本格的にコンピュータミュージックに触れて、今や先端のテクノロジーを駆使する作家として売っている。
アッシュクーシャの音楽には、彼が学び、そして手放したであろうイランの伝統音楽が、バラバラにされて電子音の中に溶け込んでいる。うずめられているように、あるいは檻の中に囚われているように。
ところで、イラン革命が起こった79年前後にも、アシュカンと似た足跡を辿ったアーティストがいる。ダリウシュ・ドーラット=シャヒは、同じくテヘラン音楽院で学んだ後、現代音楽を勉強しにオランダ、次いでアメリカへと留学し、留学中にイラン革命が起きたためそのままアメリカに亡命した。
アシュカンが生まれた85年のダリウシュの作品には、彼の西欧での電子音楽や環境音楽との出会いの衝撃が、伝統楽器のタールやセタールとの合奏という形で、直裁に現されている。地図上のアメリカとイランを折り畳んで無理矢理くっつけたような、自由で型破りで、時空を飛び越えた音楽だ。
現在の「アッシュクーシャ」に比べれば、ダリウシュ・ドーラット=シャヒなる人のことはたぶん誰にも知られていなかったし、今でも知られていないだろう。彼の作品に光が当たったのは、アメリカのエレクトロミュージックフリークであるキース・フラートン・ウィットマンが影響を公言した2006年以降のことだったようだ。
それまでの間、彼の作品が他の誰に影響を与え、どのように音楽的な子孫を残したいったのか恐らく誰も知らないし、彼のこの特異としか言えない音楽を今誰がどのように消化しているかという情報も乏しい。
でも、だからこそ想像してしまう。いつかこの不可思議な音楽が、未来に生まれた音楽の起源をめぐる伝説の中で語られるときを。