大切な人を想って生み出されたものは、自分のことだけを考えて作ったものよりもずっとしなやかで誰かの記憶の中に力強く存在して続いていく。
そんなこと知らなかった。
これは煙草くさい階段で静かに泣いていたあのひとのこと。
数年前に新宿のギャラリーを借りて写真展をした時の話だ。
そこはメインギャラリーとサブギャラリーという、大きさの違う二つのスペースが隣り合わせになっている部屋割りで、一度に両方借りて使う人もいたそうだが私は予算の都合でサブギャラリーだけを借りることにした。
同時期に隣のメインギャラリーを借りて展示をしていたのが彼女だった。
搬入の時に顔を合わせることもなく、作家名がなんだか強そうな漢字の名前だったので私は勝手に「メインギャラリーのこの人はきっといかついおじさんなのだろうな」と思っていた。
だから目の前でにこにこと笑うアジア系の美人がその人であることには、名乗られるまでまったく気づかなかったのだった。
彼女のことはここでは「リンさん」と呼ばせてもらう。
リンさんは台湾出身の女性写真家で、黒目がちな瞳としなやかで俊敏そうな身体つきはなんとなく野生のカモシカを連想させた。
とてもフレンドリーで、日本語と英単語を使っていろいろな話をしてくれた。姉に歳が近いこともあり私はすぐ彼女になついた。
会期中の暇な時間、私とリンさんはお茶を飲んでお喋りをしたり蒸しケーキみたいな台湾のお菓子を食べたりした。他愛のない内容の話ばかりしたけれど、それはとても楽しく嬉しい時間だったことを憶えている。
彼女の写真は凄みのある作品だった。
暗闇の中にあるざらりとした質感が切迫した何かを表していて、展示されている作品群を見ていくうちに気づいたらがちがちに歯を噛み締めてしまっている。そういう写真。
展示作品の中には数点のセルフポートレートもあったけれど、私にはどうしても目の前でにこにこ笑っているリンさんと写真の中の女性が同一人物に思えなかった。
展示最終日。
いつも通りの時間に階段を上ってギャラリーに入ろうとした時、上階のほうで誰かの気配がして私は足を止めた。
上の踊り場は喫煙所になっているが、ギャラリーがオープンする前の時間にここで煙草を吸う人などいないはずだった。
怪しい人だったらどうしようと思いそっと様子をうかがうと、こちらに背を向けて泣いているリンさんがいた。
驚いたし、こういう時の適切な対応がわからなかった。そっとしておくべきか迷って、でもひとりで泣きじゃくる背中があんまり小さく見えたので私は静かに隣に座った。
彼女はまず泣いていることを謝り「あまり詳しくは話せないけれど」と前置いてぽつりぽつりと話しだした。
今回はとても大切なひとのための写真展だったこと。
絶対に会いにくると約束していたこと。
でもその人は現れなかったこと。
この機会をのがしたら、二度と会うことができないこと。
言葉と涙がひとつずつ溢れていく。
私は何もできず、ただその震える背中にそっと手を置いていた。
リンさんの展示のタイトルは、邦訳すると『耽溺』だった。
その意味は「溺れること」あるいは「よくないことに夢中になって他をかえりみないこと」。
彼女が溺れたこと、溺れてもいいと思ったことがどんなものだったのかは私にはわからない。
でも、何かに夢中になって誰かを溺れるほど想うことは、そんなに簡単なことではないだろう。
展示が終わってからはリンさんに会うことはなかった。
彼女が持っていたあの切実さと作品たちを、私はいまでもずっと忘れられないでいる。