どれだけ思いを巡らせたとしても、自分以外の者が何を考え何を想い、どんな気持ちで生きていたのか、その人が幸せだったか不幸せであったかなんて、きっとずっとわからないままだ。
それでも私は対岸のあなたに問いかけ続けている。
始まりは12年前。
ペットショップで見かけたときの印象は「ふてぶてしい」で、絶対にこいつとはウマがあわないし一緒に暮らせないだろうなと私は思っていた。
しかしそれから数日後。どういうことだか犬はリビングに置かれたイチゴの形のクッションに座って誇らしげな顔をしているのだった。
「なんかへんなのと暮らすことになっちゃったな」と思ったが、それは秘密の話である。
そうして私たちの共同生活が始まった。
犬は食べることと石油ストーブのあたたかさが好きで、雨の日の散歩となでられることが嫌いだった。
美味しいものを食べ、たくさん遊んでたくさん眠る。目の前にあるものだけを見る。自分がここにいる意味なんか知ったことではなく、ここにいるからここにいる。
それが犬の考え方で、そのスタンスは生涯を通してぶれずにいた。
いくつもの季節を一緒に過ごした。
春は公園に散歩に行き、夏はクーラーのきいた部屋でだらだらし、秋は同じ釜の味噌汁(犬は具の里芋だけ)を食べ、冬はストーブの前で一緒に暖をとった。
共同生活は思いのほか穏やかに過ぎてゆき、私のふてぶてしさと犬のふてぶてしさがぶつかって険悪な空気になることはついぞなかった。
私が実家を出てから会う頻度は減ったものの、それでも帰省するたびに犬は「おっ、あんたか!」という顔をして出迎えてくれた。
その冬は、犬にあたたかな毛糸の毛布をあげようと思い慣れない編み物をしていた。
出来上がったのはあざやかな水色の毛布で、下手くそながらも味のある仕上がりだった。
早く渡したい。犬は喜んでくれるだろうか。そう思って楽しみにしていた。
2017年12月初旬。犬は父と母に抱かれてこの世を去った。
突然のことだった。報せを受けても実感は湧かなかった。
あんなふてぶてしいやつがこんなあっさりいなくなるわけがない。そう思っていた。
年末年始の帰省で、私は当たり前のように荷物の中に水色の毛布を入れてきた。
だっていなくなるわけないじゃんと思っていた。一ミリも受け入れることができなかった。
だからリビングに犬の写真と小さな骨壺が置かれているのを前にした時、こみ上げるものを抑えられなかった。
もっと早く家に帰ってくればよかった。
さよならも言えず抱きしめてやることもできなかった。
別れはいつだって唐突で、そこに残るのは後悔ばかりだ。
犬、あなたは、私たちと家族になって幸せだったのだろうか。
それは誰にもわからない。
でも、あなたがいてくれて、私はとても楽しく幸せだった。
大好きだよ。ありがとう。いつかまた会う日まで。