弱さを抱えて生きることは罪ではない。
「こっちは雪がつもってるよ」
めーちゃんが電話でそう言っていたので、通話を終了してからしばらくの間福島の雪景色を想像した。
山の深緑と雪の白、澄んだ冷たい空気。吐く息は白く立ち上り、降り続く雪は音や気配を吸収する。
永遠に思える静寂。厳しくも美しい冬。
生きるための自己防衛本能なのかは知らないが、私たちの記憶のほとんどは自動的に美化される。
だが彼女との思い出はいつもそのままだ。街を歩きまわりながらしたおしゃべりの楽しさも、別れ際の寂しさも、日差しのあたたかさも街の喧騒も、すべてそのまま私の中にある。
渋谷のカフェかなんかでチャイを頼んだ私に「ゆか…それは胃薬ミルクだぞ…」と言っためーちゃんの真剣な顔が浮かび、少しだけ笑う。
ぬるくなった普通の紅茶を飲みながら、いろいろなことを思い出していく。
理由はないのに会うだけで元気をもらえる、そういった存在がいるひとは多いと思う。
私にとってはめーちゃんがそうだ。彼女とは5年前に渋谷のライブハウスで出会った。
最初は共通の知人から紹介されて挨拶したはずなのだけど、緊張してあまりおぼえていない。
二度目に顔をあわせたのはいきなり彼女の家で(詳細は省く)、そこから連絡先を交換して遊ぶようになった。
スイーツ食べ放題に行ったりライブハウスに行ったり、下北沢や井の頭公園、上野動物園や横浜中華街、みなとみらい、上野の国立科学博物館など、本当にいろいろなところで遊んだものだ。
私たちはよく喋った。恋愛のことや仕事のこと、生きづらさのこと、読んだ小説のこと、生きていくことと死んでいくこと、許すことや許されること…。
どれだけ喋っても話したいことが尽きることはなく、いつも二人で喋りまくっていた。
今思うと、私はめーちゃんの不完全さに親近感をおぼえていた気がする。
自分の不完全さとはまた違う、彼女だけの優しさと弱さと激情と空虚のある不完全さ。
それでも、あなたと友達になりたいと思ったのはあなたが弱いからでは決してない。
2019年の夏頃、彼女は精神的に不安定だったように思う。側から見ていて自分という存在を消したいと強く願っているように感じた。
一度だけ夜中に煙草の吸い殻を飲んで死のうとしたことがあった。
少量だったこともあり命に別状はないと言われたが、いてもたってもいられず私は仕事を休んで翌朝めーちゃんに会いに行った。
ドアを開けて彼女の顔を見た瞬間、声をかけるよりも先に私は泣きだしてしまった。
彼女のつらさが他人である私にわかるはずもなく、死ぬなと言う権利も資格も持っていない。
でも私は、こんな形であなたに一生会えなくなってしまうのは嫌だった。
それからしばらくが経ち、めーちゃんは東京を離れて地元である福島へ住居を移した。
現在も完全に安定しているわけではなく波はあるけれど、書店で元気に働いていると先日通話した時に本人から聞いた。
気軽に会えなくなるのは寂しいけれど、私たちには文明の利器・スマホがあるもんね。
いつかまた会える日がくる。私はそれを知っている。
遠く離れた土地、あなたのいる場所に想いを馳せる。
どれだけ苦しくてもつらくても、死んじゃいけないなんて誰も言っていいことじゃない。
でも私は、あなたと一緒にこのクソみたいな世界を生きていきたいと思っている。