私のアパートメントに訪れてくれたあなたへ、はじめまして! 私の名前は荒々ツゲルです。
これは大学に入学してから作品を発表するときに使いだしたペンネームで、“荒々”も“ツゲル”も、私の母方と父方の苗字からもじってつけたものなのです。
そして、私がこの名前のときに発表する作品は、いまのところすべてが日本語で書かれた『物語』です。
アパートメントという場所でこの名前をつかって言葉を紡いでいくにあたって、私は私自身の物語について書いていきたいと思います。
いじわるな担任が嫌で、学校を休んでは家で脚本を書いたりしていたから、優等生でした!とは胸を張って言えない高校生だった私。将来の夢として、「脚本家」とか「シナリオライター」を意識し出したのもちょうどこの17歳くらいの時期だった。
演劇部に所属していて、そこで許されていた「お話を作る」という行為が楽しくて、先輩や顧問に褒めてもらえて、全国大会とかにも行っちゃったりして、というか、そもそも、昔から妄想癖みたいなのがあったから、「お話を作る」という行為が苦じゃなかった。自分の人生を気に入ってなかったから、頭の中にいる人間たちに時間を潰させているととても生きやすい。そしてその、自分から出てきた自分じゃないものを褒めてもらえると、すごくいい気分!
今回は「この妄想癖、いつからだっけ?」というところから思い返す。
まず、一番はじめにインターネットに自分の作った物語をアップし始めたのが、小学校4年生の時。
当時わたしたち小学生の間では、『アメーバピグ』というインターネット上のコミュニケーションツールが流行っていた。
そこでは自分好みに制作した三等身ほどのアバターを操作し、他のアバターとチャットをする事ができたので、(最近知ったのだが、今はウェブではできなくて、アプリに世界丸ごと移行?したらしい)放課後も仲の良い同級生とコミュニケーションをはかったり、習い事の友達と時間を決めて待ち合せしたりすることも可能だった。
そして、ピグをやると、ピグはアメーバだから、アメーバのブログも機能としてついてきた。
私はそのブログを、けっこう頑張って書いていたのだ。
漫画形式のブログが好きだったから、その日あったことを一枚絵にして載せたり、コメントが知り合いから来れば返信して……、今思い返すと、小4にしては器用にパソコンをいじれていたな、と感心する。やはり人というものは若い方が新しいツールに早く慣れる事ができるのかもしれない。2000年生まれの私がオンライン授業用のツールに抱いている苦手意識も、令和の子供たちには縁の無いものになるのだろう。
だけど、たまにそのブログの為だけに、絵が描けない時があった。めんどくさいから。
そんな機会に始めたのが、シルバニアファミリーの写真を撮って、セリフを付けて、物語をつくることだった。
うちは三姉妹なのだが、その全員が夢見がちでオタク気質なインドアだったことも手伝って、お人形遊びは家庭内主流の時間つぶしで、小物がそれなりに揃っていた。それに、無い物は工作で作ればいい!というハングリー精神も持ち合わせていたから、当時から非常に精度の高い”ごっこ”ができていた気がする。今もきっと実家の二階のクローゼットを漁れば、あの時の残骸がほこりをかぶった状態で発見されるだろう。
私はシルバニア達の家づくりに気が済むと、そこに入居する人形を設定し、彼(ら)の生活のごっこ遊びを楽しんだ。
そしてそのうちひと家族だけで展開していきたい物語が私の頭から尽きて、「よし! 幼馴染の家を隣に作ろう! そして幼馴染との間で恋愛的に取り合いになっている男の子もつくろう!」と決める。
彼らの家を作る。
次はそれぞれの家庭内から飛び出して、「何気なくカフェに行った時に他の二人がデートしてるところを目撃して傷つくやつがやりたい!」と決める。
カフェができる。
そんなこんなで、我が家の一角は人形の住む町になった。
これが、私の覚えているなかで一番古い「物語の創作」の思い出。じゃあ私の妄想癖も、こういった『登場人物たちとその周囲の生き様、世界観の広がりを思いつきたい』という欲求から始まったものなのではないだろうか?
……
私はこの思い出を懐古しながら、ひとつのおはなしづくりの決まりを思い出した。
「町とは物語である」
ということ。
あなたは、「やろか水」という妖怪を知っているだろうか? 大昔……今で言う岐阜・愛知あたりの地域に現れたと言われている、人に声をかけてくるタイプの妖怪だ。
秋の半ばに雨ばかりが降って、木曽川の堤防が危ないのではと、見張り番をしていた村人に、その妖怪は「やろうかあ、やろうかあ」と声をかける。
誰かが「いこさばいこせえ」と、それに答えてしまうと、大水がどっと押し寄せ……村の田はみんな水の下に沈んでしまった。
……この物語には、岐阜・愛知あたりに住む人が聞くと、『あ~、なんか分かるかも』と言いたくなる空気感がある。
そう。地元民にはなんとなく、「やろか水」のいる場面の、想像がつくのだ。
がっつり”やろか地域”である私の地元・岐阜には、海が無い代わりに、大きくて美しくて恐ろしい川がたくさん流れている。すこし前に47都道府県の特徴をイメージしたフラペチーノをスターバックスが売り出して話題になったが、それで岐阜県のフラペチーノのモチーフが「川」になる(……)くらいには、岐阜は清流のまち。
そんな清流のまちで生まれ育った人間は知っている。大雨の、特に次の日の川はとても恐ろしいことを。
だって、川は本当に危険なのだ。通っていた学校の近くにあった長良川は、夏の時期には鵜飼を見る為の船が出て、それに乗ると、鵜匠の炊いた松明の火の粉が、川の水面に赤く反射しながらじゅうっと落ちていく様子とか、鵜の鳴き声と身近でない生き物としての生々しい存在感が、非常に心地の良い場所なのだけれど、そこで毎年、何人も川に連れていかれている。
高校在学中には、他校のとある学生が、通学途中に川に浮かぶ人の死体を見つけたんだという話で、大騒ぎになった朝があった。
やろか水とは、そんな土地が、
いや、そんな土地に生きてきた人々がおのずと産んだ、営みのための物語なのだ。
そう信じているからこそ、私はいつまでも町の”ごっこ遊び”のものがたりを書いて生きていきたい。ごっこ遊びが現実の町に結びついたら、なお良い。ものがたりで町をつくるのが私の目標だから。
この、私の信仰する「町は物語」というおはなしづくりの決まりを、妄想癖人生一番最初の思い出から、掘り返す事ができてとても幸せだ。物語や文章の終わりには必ず物事が好転しなければいけないという決まりはないけれど、今回の投稿はこのハッピーな感じで〆させていただく。
やろか水の話は、柳田国男の著書「日本の昔話・日本の伝説」に書かれていたものなので、もしよかったら同じ本を、そして、是非やろか水の生まれた岐阜という土地にも、是非興味をもっていただきたい。来週はさらに土地の物語への思いについて語りたいと思います。それでは。