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思考する血液

当番ノート

昨年、大学で、ハートにまつわる文化を学ぶ講義をとった。

その講義をうけたことで、私の中に深く残った知識がある。

「涙は心臓に由来するモノだから、感情を感じているのは心臓。だから、思考を”している”のは血液である」

と信じられていた時代があったらしい、ということ。

確か日本の外のいつかの人々の話なのだけれど、細かい部分はノートに書かれていなかったので確認できなかった。とにかく『思考する血液』というメモ書きが印象深い言葉だった為、今週の記事のタイトルに選んでみた。

当たり前だが、物語を書くには色々と勉強しなければいけない。私は勉強という言葉にあまりいいイメージが無いので、やはり調べものという言葉で言い換えていきたいのだが、事象の中には物語の種が眠っているものだ。

血液が思考する時代の人々は、きっと流血への恐怖心が今よりも分厚かったに違いない。

血が出ると痛いからイヤだ!死んじゃう!というだけではなくて、例えば浮気をしている人が恋人の前で指の腹から流血し、

恋人「舐めとけば治るよ、ペロ♡」

となった瞬間、頭の中に「ヤベエ!浮気バレちゃう!」という恐怖が浮かぶ……みたいな。

傍から見るとちょっと間抜けな痴話喧嘩みたいなのが産まれるシチュエーションが、この時代にはあり得たかもしれない。

知識を増やすと、描ける物語の種類が増える。

たくさんの物語を、たくさんの知識から生み出せる作家は、きっといい作家だ。つまり知識とは物語なのだ。

決して偏差値がこれくらい無いとダメ!という線引きの話ではない。もし物語の創作者に偏差値での足切りがあったら、私は今の将来の夢を抱くことは無かっただろう。

知識と物語の関係について話す前に、私自身の「知識」についての思い出を綴ろうと思う。

私が中学生当時通っていた塾には、校内のテストで合計350点以下を取ると強制退塾、という、ちょっと下品なテレビ企画みたいな制度があった。

当時憧れていた男の子がそこに通っていると聞いたので入塾したのだが、もう通いだした後は「わーいあの子とおんなじ塾だ♡頑張ろ♡」とか言っている場合ではなくて、塾にいた大人のえげつない学歴至上主義の中で苦しむ毎日が始まった。とにかく点数、点数、偏差値、偏差値。350点以下は人に非ず。

何年も前の事なのであまり正確には覚えていないが、とにかく良識あるオトナなら決して子供に向かって言わないであろう言葉がよく飛び交い、一人特に強烈な方がいらっしゃって、「~大学とか~大学は行く意味無い」とか、「~高校行くくらいなら進学しない方がいいよ」とか、今も誰かが通っていて、なおかつ行きたいと思っている人がいるであろう場所を、未来のひらけた子供を集めて語るという暴挙に、日常的に及んでいた。

ある日私の憧れていた子が塾の宿題を忘れてきた時、その方は「お前顔がちょっと良く生まれてきたからって何でも上手く行くと思っちゃいけないよ、世の中甘くないからそんなに」みたいな事を、他の生徒がいる前で言い放った。彼はその後塾を辞めた。

当時の私は怒られてから塾に来なくなった彼の姿を見たことで、彼に対しての憧れを手放した。だが今思い返してみると、転塾したその子はとても健全な人間だったと思う。本当にヤバい敵とは、戦わずに逃げるのが正解だからだ。

一方、入塾した目的を失い宙ぶらりんになった私は、辞めるタイミングを中々掴めず、そのまま過激思想の中で受験期を過ごすことに。

結果的にはそこに通っている間成績が下がる事は無かったので、塾という存在としてはとても良い環境だったと思う。

だけど知識をつける行為というのは、選べる選択肢を増やす為のものであるべきで、仮にも知識を得る為の場所である塾で、未来の選択肢を否定し、お前の人生はこの学校に行けなかったらもう価値が無いんだよ、と脅すような真似をするのは、良くない事だったはずだ。

ある日私が塾の宿題を(なんと!あんなに怖い場面を目撃していたのに)忘れてしまった日のことだ。暴挙の君は色々と嫌味を言ってきて、私はついに泣いてしまった。そんな私を見て、彼はこう言った。

「うわー。中学生日記みたい」と。

え!?そんな事子供に言う?

これがどんなに意地悪な一言だったのか分解していこう。

中学生日記→中学生が登場する青春ドラマ→お前のその演技臭い泣き方が気に入らない

宿題を忘れたごときの子供に言う皮肉に込める文脈じゃない。

私になまじテレビの知識があったせいで、このご立派な嫌味の意味を、言われてすぐちゃんと受け取れてしまった。私はこの日、生まれて初めて面と向かった人の言葉でフリーズした。

この経験から教訓を得るならば、知識があるということは、自身の中から言葉を与えて文章にできる思いを増やせるということなのだろう。

知識は物語に厚みを持たせる。

多くの人の事を知っていれば、多くの世界にまつわる情報を知っていれば、物語の一つの側面である「大きな嘘」というところで、書き手は迫真の演技ができるから。

知識とは何かを制限するものではなく、更にアイデアを飛躍させるための助けになるものなのだ。

塾を辞めた後、暴挙の君の名前が性犯罪か窃盗か何かで新聞に載ったという噂が周囲で流れていた。知識としても興味はないので、今後私がこの出来事についての真偽を確かめる事はないだろう。おしまい。

荒々 ツゲル

荒々 ツゲル

物語をつくりながら、物語について学んでいる者です。
現在は芸術大学に在学しながら、
演劇・テレビドラマやラジオなどの放送関連の脚本・ゲームシナリオ等の執筆をしています。
海に憧れる岐阜県出身です。

Reviewed by
木澤 洋一

荒々さんのここまでの連載は一貫して物語を構成する要素と、それにまつわる自身の物語を交えていて面白い。今回の要素は知識。
キツい出来事からも教訓を得ていて、物を書くとはそう言う事かぁ〜と思った。

ここまで物語について読み、正直なところ自分は普段から物語、物語性とは相反するような生活や思考回路をしているなあと思う。エネルギーを節約するかのように日常で起こる様々な事象に明らかに鈍感になっており、思考に物語性が欠如している。早く物語性を取り戻したいと思う。

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