みなさんこにゃにゃちは。前回ちょっと長くなりすぎたので今回は反省を込めてちゃんと短くスッキリまとめて書こうかと思ったりしています。なので、本来ここで書こうと思っていた、イワン・イリイチとミッシェル・フーコーと高山宏の言語観と貨幣観をつなげて並べて現代にその問題点がどのように引き継がれていて、どんなふうに顕在化しているのか、またその問題は芸術の分野にも明らかに反映されているのですよ、というようなことなどはざーっと割愛して、いきなり本題にどーんと入ろうかとも思うんですが、もしかしたらこれを読んでくれている人達の中にはフーコーも高山センセーについても知っているし彼らの著作だって読んだことはあるけれど、イリイチって人は知らないなあという人がいるかもしれないので、折角の機会ということでちょっとだけ説明しておくと、彼はユダヤ系オーストリア生まれの哲学者にして社会評論家、または文明批評家で、この人の「ヴァナキュラー」や「シャドウワーク」などの用語は相当な説得力を持ってかなり広範に使われるようになったし、特に女性の社会的立場や地位、もしくは歴史的に社会の女性的な領域に対して加えられ続けた抑圧に対する考察や批判は、あのハナ・アレントよりも尖鋭的だったりするのです。原発問題に揺れまくっている今の日本の状況を鑑みる上でもっと読まれるべき著者であるし、言語と経済の領域で15世紀のスペインに何がおこっていたのかという彼の分析を読んで、そこからフーコー、高山の近代についての分析につなげていけば、彼らの言わんとすることもさらに明確になろうというものなのです。だいたいにおいて、西洋の科学的思考というものがそれによって自らをどん詰まりに追い込んだとも言える原子力発電の技術こそを、アジアの端っこにある現在の日本の政治家が必死に守ろうとしているということの全くもってあほらしいとしか言いようの無い状況の根幹は、そういう西洋志向を考古学的に読み通しておかないと、そしてそれがどのようにして日本に移植されたのかという、その辺りのことをつかんでおかないと見通すことなんて出来ないはずだと思うのです。
あぁ、いかん。また余計な話を長々と書き始めるところでした。ので、なんとか本題に戻るべく軌道修正することにします。上で「尖鋭的」という言葉を使いましたが、「尖」という字を見て今の日本人の誰しもがどうしたって思い浮かべてしまうのが「尖閣問題」のことでしょう。いつ中国が攻めてくるのか、反日デモもしょっちゅう起っているらしいし、共産党の一党支配だし、長らく不況一辺倒の日本を横目に異常なスピードで経済発展しているようだし、北朝鮮ほどではないにしても、なんだかどういう国になっているのかよくわからない。そういうような何とも表層的な疑心暗鬼をあおって敵愾心にまで仕立て上げられているような状況が今の日本にはあるようですが、そんなのにのせられていてはどうしようもありません。そういう言説はいわゆるブルシットだと断言してもいいと思いますが、だいたいにおいて、不況続きの時は、国家がエセ愛国心を煽って排他的行動に出ることはよくあることで、そんな風に煽っておいて移民を追放して人口を減らし、国の経済的負担を減らすと同時に他国や多文化、他民族へのヘイト感情を高めて、さらには戦争に突き進み、あわよくば外国の土地や富を奪い、さらには国民の何パーセントかを戦地で名誉の戦死させることで更なる人口調整をするなんてことも考えているかもしれないような政治家なんかは全く無能でセンスがなく、自分の命を棚上げにして、他人の命はゴミのように扱う『天空の城ラピュタ』のムスカみたいな連中だと考えてあんまり間違いはないわけですが、そういう輩に限って権力を持つ立場に立てる術だけはちゃんときっちり心得ていたりするので困ったものなのです。その辺りはちょっと分析すればそれがどういう論理構造を持ってそうなってしまうのかということはかなり簡単にわかってしまうだろうとも思うのですが、そういうことを今ここでやったとしてもそういう人は減ってはくれないという諦念もぼくにはあったりするので、結局ここではただ自分の好きなことだけを勝手に書き続けることにします。
実は、つい昨日のことですが、今まで1年半ほど使っていたブラックベリーのスマホがどうにも調子が悪い上に、実はずっと相性が悪いのを我慢していたのがついに限界に達してしまい、新しく買い替えてしまいました。Macユーザーであれば、もちろんiPhone、ということになるはずなのですが、スマホ界のメルセデスと呼ばれるだけあって、いくらなんでも高すぎる。いや、ちょっと無駄遣いをやめれば何とかなるかもしれないという、浅はかな自己弁護の言葉も聞こえてはいたのですが、数知れないケータイ新製品が並ぶ電化製品屋の真ん中でよくよく自分の好みに照らし合わせてみれば、腕時計はカシオ、好みのバイクはホンダのスーパーカブ、車ならばスズキかスバルだろうというような人間(免許は持ってませんが)には、さすがにメルセデスは分不相応というものだ、という結論にいたり、スバルみたいなスマホを探すことにしました。そうなるとアップルの最大のライバルにのし上がったサムソンのスマホではアウディを買うことになってしまうのではないか、かといって、フランスのアルカテルの製品なんか買った日には一生涯しゃべり中毒のフランス人みたいになってしまうような気もしたし、二度とブラックベリーを買うつもりも無く、結局は純中国製のものにしようと決意し、Huaweiという会社のAndroidスマホを購入したのでした。早速いじり倒してみるとこれがなかなか良く出来ている。裏蓋の触感も好みだし、Androidが思った以上に使いやすい。なので早速アドレス帳やらスケジュールとかは全部グーグルに乗り換えてしまいました。かなり便利。なんというか、グーグルとHuaweiって貧者のための最高のコンビじゃないかと思ったりします。
中国と言えば、この間蚤の市をぶらついていたらひとりの中国人に声をかけられてちょっとアンティークのことについて話し込んだんですが、彼がその日そこでゲットしたのがどうやら日本製の絵はがきでなんと東郷平八郎の肖像が印刷されていました。中国人の彼はこれは有名な人なのか、と尋ねてきたので、そうですそうです、日露戦争のときに大活躍した軍人さんです、と説明したらなんだか嬉しそうにしていました。その様子を見ていて、ぼくはなんとなく動画サイトで日本のアニメやドラマに中国語の字幕をかなりの短期間につけてアップしているような人達のことを思い出したのでした。尖閣問題が沸騰しようと南京問題が未だ闇の中だろうと排日デモが(中国政府の煽動で)起きようとも、日本の文化を愛してくれる中国人は決して少なくはないのだろう、と思うのです。
先日も、とある中国の動画サイトで『リーガルハイ』を見ていたら、しっかり中国語訳がつけられてあったのと同時に親切にも日本語も同時表記されていました。さらにそのサイトはニコ動方式でコメも画面上に流れるんですが、内容はほとんど理解できないものの、漢字の感じからそこにコメントしている人達がかなり楽しんでいる様子が垣間見えたのでした。それをみて、いやぁさすがに古沢良太脚本の『リーガルハイ』と堺雅人はアジアグローバルにすごいのだなあ、と感心したりしたのでした。
ところでこれはぼくが勝手に思っているだけのことなので、ここだけのことにしてほしいんですが、「リーガルハイ」の主人公である古見門研介は中国に関係があります。もう少しわかりやすく言うと、「古見門」という名字が中国のある社会現象と関係があるのではないかと思うのです。前回『半沢直樹』について書いたときにそのネーミングについてちょっとだけ書きましたが、「リーガルハイ」でも似たようなことが仕込まれているようです。
中国で長期に渡り一人っ子政策が行われてきたのは周知の事実ですが、その一人っ子たちがやたらにわがままに育ってしまい、それがいまや社会問題にもなっており、そういう問題一人っ子たちが「小皇帝」と呼ばれているということも知っている人は多いと思います。この「小皇帝」の日本版があるとしたらどういう言葉になるでしょうか。おそらく「小天皇」、天皇というとちょっとあれかもしれないのも確かなので、「小帝」くらいに落ち着くでしょうか。で、この「小帝」って「コミカド」、と読めますね。そうです。古見門は「小帝」なんです。彼が(おそらく)一人っ子であり、かなりわがままでやりたい放題なのは、このドラマの第一期を通観すればわかると思うのですが、このキャラクターのベースになっているのが恐らくは「小皇帝」なんだろうなあ、とぼくは推測しているのです。このネーミングに関してはぼくがリサーチした範囲では制作側からは何の発表も無いようなので、確かなことではありませんが、それが恐らくあたっているだろうなという一つの証拠があります。それというのは、『リーガルハイ』の第一話での古見門研介が初登場するシーンで、彼はいきなり中国語をしゃべるということす。まあ、それだけの話なんですが、おそらく「古見門=小帝説」はあたっているでしょう、という自己満足的な話です。
適当にこんなところで今日は切り上げることにしますが、こんなことからも何となくかすかにじんわりとわかることですが、なんといっても文化に国境は引けません。なぜだか知りませんが、某新聞社の調査によると日本では今、中国に対して良い感情が持てない人が8割もいるそうです。ぼくにはなんだか異常事態だとしか思えません。例えばベルギーにいて(戦時中ではなく今現在の話ですが)ドイツやフランスに悪い感情を持つ人が8割もいるなんて状況は考えられないのです。まあそういう意味では、「戦争」という言葉が実はものすごく現実を帯び始めているんじゃないかと、危惧したりしています。政治に人が分断されるのなら、文化で、芸術で、なんとか人が繋がり続けられないものだろうか、と思ったりするのです。つなげることこそ、芸術の本領のはずなのですし。