大学を卒業したての頃、ぼくは出張撮影の会社に少しの間勤めていました。そのときに先輩から言われたことは、時間があったらネガを見ているように言われていました。はいりたてで諸先輩が撮影して来たフィルムの現像出しと、焼き増しの袋詰め作業等の雑用を素早く片付けながら、ネガカラーのオレンジ色越しに広がる明暗反転した世界を眺めていました。プロの先輩方が撮影したネガと「へたくそ」と呼ばれていた大学生の臨時のアルバイトカメラマンが撮ったネガを交互に見ながら、何が違うのか?始めの一週間は良くわかりませんでした。ピントもあっているし、構図もそんなに変じゃない、何だろうと。
そのうち、ネガに記録されているものの色が分かるようになりました。頭の上に青くて丸いものが並んでいるのは、幼稚園児の通園帽だとか、この緑色の細かな点々は、ツツジの花だとか、ネガに刻まれた被写体を読みながら自然と補色の関係について覚えていきました。そのうち、例えば人物スナップの仕事のネガでは、大抵頭の大きさがネガ上で3〜4ミリくらいに揃っているとか、ヒトコマに5〜6人づつ写っていることとか、風景っぽい印象的なカットには、必ず花とか、ボートの脇腹とか、赤いものを画面に差し込んでいるとか、スナップなのにたいして広角寄りで撮っていないと気がついて、先輩のカメラを見たら、ニコンの43~86mmのズームレンズを付けていたとか、とにかくそういうことが分かってきました。
刻まれているネガの情報から、一体なぜそうしているのかを考える様になりました。
人物スナップは、記念写真として1枚100円とか200円とかで売る写真です。3人しか写っていない場面を撮るよりも、6人で写っているカットの方が、ヒトコマから沢山の枚数が売れる可能性があります。それでは、15人ではどうかというと、顔が小さ過ぎてそれでは売れないということも知りました。
風景の中にしばしば赤い色を差すのは、アルバム状のものを作る時に、赤が入っていると、ページの中でメリハリが効いて印象的な冊子を作ることが出来るからだそうで、確かに意識して撮っておかないと、中々赤が印象的なスナップは見当たらないものです。
見て考えるというのは、物事の本質に自分なりに迫っていくということだと今思えば分かるのですが、これは表現する写真においても常につきまとっているのだと思えてなりません。それぞれのテーマの取りかかりは、最初のうちは単なる興味本位に過ぎません。やがて被写体を観察し自分の写真を眺めることを重ねていくうちに、その経験を通じて他人に語りたい何かが芽生えてくるのではないかと思います。その掘り下げる方向は作家さんにとって様々で、そこに面白いも面白くもないとは思いますが、そうは申しても見る側あっての表現であって、他人の時間に介入する訳ですから、相応の器はあって然るべきです。
作家としての観察力や考察力、さらにはある種のユーモアを器に盛りつけていく、素材の新鮮さや味付けは、モチーフや技巧手法の話と言い換えても良いかもしれません。
ある程度の訓練で向上すること出来るでしょうが、もし、表現者に才能の有無があるとすれば、自分の興味から物事の本質を見極めていく部分につきるのではないかと、この秋いくつかの写真家の持ち込み作品を拝見しながら思いました。