
藤田莉江さんとの二人展『Strangely beautiful vol.2』終了いたしました。暑い中、たくさんの方に来ていただき、本当にありがとうございました。
どうして6年も展示せずにいたのか? 正直な話、コロナ渦で収入激減して生活に追われていたのです(そんなしみったれた理由であって、情熱が枯れたわけじゃなかったのですよ)。
次は6年も開けず、出来れば1~2年に1回はこの規模の展示(個展もしくは二人展)を出来たらなぁと思っています。抑えていた展示欲に火がついて、実は会期の途中からもうすでに次の展示のことばかり考えていました。
何名か写真を購入してくださる方がいて、その選定が「これですか!」と、撮った本人も感心するような、地味目の写真だったりして、こういうのを買ってくださると本当に嬉しいものです。
何らかの切実さに曳かれてシャッターを押した写真があり、それが一見「地味」であるということは、撮らされた「意味」が、撮影者本人にも言語化できないほどに曖昧であったということです。曖昧だけど切実。その曖昧さを曖昧さのまま受け渡しできたときに、写真って凄いなぁと思えます。あやふやなものに無理に答えなど乗せず、そのまま受け渡せるのが写真。言葉の外にある何かをまとわせて運ぶ手段。
あやふやなものはあやふやのままでいる権利があるのです。「権利」の使い方間違ってるかな。まぁいいか。
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正直なところを言うならば「Strangely beautiful」というのは、まぁタイトルとしては卑怯というか、何も言ってないに等しいわけです。みょーに綺麗って何だよ。ミュージシャンが「なんかええ歌」っていうタイトルの曲作ったら? あ、面白いか。いや面白くないか。わからん。
僕が今まで展示のタイトルとして出してきたのは、よく考えたらこんなのばかりです。「叙情寫眞」「重力と叙情」「風景について」「時間を解剖する」「摩擦係数」。何か言ってそうで何も言ってない感じの言葉ばっかり。詐欺師みたいですね。
要するに僕は言葉というものを根本的に信用していないのです。言葉だって本当は写真みたいにあやふやなものをあやふやのまま描きだす能力は持っているのですが、それをそのまま操れるのは、詩人のような、言葉の重層性を熟知し、ひとことの言葉の後ろには千語万語の積み上げと揺らぎがあるのだということを知り抜いた人だけだと思っています。言葉はほっておくと勝手な意味に収斂したがる。そうじゃないんだ、という方向へこそ固まりがちです。僕は伊藤比呂美や小池昌代や最果タヒのような詩人が書く散文(あくまで散文)、が好きなのですが、日々言葉を解体し戦い抜いている人の書く文章というのは本当にスリリングです。
本当はそういうスリルに、写真で追いつきたい。まだまだ程遠いのですが、こころざしはそうなんです。
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展示写真、全部公開します。見に来れなかった人にも優しいカマウチですよ。次は来てね(笑
[ And the world looks strangely beautiful today ] kamauchi hideki 2025.8 Gallery & Darkroom LimeLight























◆誘ってくれた藤田莉江さんに感謝を。