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2F/当番ノート

「してあげる」の不思議

当番ノート 第49期

「気づいてあげられなかった」「助けてあげられなくてごめんね」とか言われると、「いや、別に結構ですけど……」ってなる。

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「してあげる」という言葉が苦手だ。「駅までついでに車で送ってあげるよ」とか「時間がないなら買っといてあげるよ」とかはいい。素直にありがたいと思う。苦手なのは、「気づいてあげる」「助けてあげる」「考えてあげる」「わかってあげる」という類。

「苦しんでるのに気づいてあげられなかった」

「あのとき助けてあげられなくてごめんね」

「それは相手の気持ちを考えてあげる必要があるんじゃないかな」

「わかってあげたいなって思う」

なんて言われると、その瞬間に心がスッと冷たくなって、「結構ですが」の壁ができる。

並べればわかるとおり、わたしが受け入れがたい「してあげる」はすべて、心の動きの「してあげる」である。相手が100%の善意で言っていることはわかる。けれども、いや、だからこそ、どうにもこの「してあげる」は受け入れがたい。

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「してあげる」は、「して差し上げる」を丁寧な形にしたもので、「してやる」と同義である。「してあげる」側の行為によって「してもらう」側に恩恵がもたらされることを表わしている。

そう、「してあげる」には、「自分がそれを相手のためにやってやろう」というニュアンスと、その言葉を発する側の「相手にとって良いことだろう」という思いが少なからず込められている。

「やってやろう」は単なる押し付けであり、される側のことをほんとうに考えた行いであるとは限らない。そして、「やってやろう」「きっとこれが相手にとっていいことだから」が組み合わさったときの破壊力よ! 鬱陶しいの一言に尽きる。けれど「してあげる」人はそれがわからない。鈍感だから。

「してあげる」人の鈍感さは理解の鈍感にも及ぶ。たとえば「わかってあげる」によって為される「わかる」とはほんとうに相手のことを「わかる」なのかについて、「してあげる」人はたいてい鈍感である。どころか、そもそも「わかってあげる」が「わかる」とはまったく異なるものだということも、きっとわかっていない。

「わかってあげる」に含まれている不純物とは、要は善意なのだ。かわいそうだから、それが相手のためだから、そうすれば相手はきっと助かるだろうと思うから、だから、してあげる。けれども、「わかる」は本来、自然な心のはたらきである。それが作為によって為される、つまり、「わかる」ではなく「わかってあげる」になったとき、「わかる」は途端に不自然にゆがむ。ゆがんだ「わかる」を向けられることの息苦しさを、きっと誰もが知っているだろう。

「してあげる」人は鈍感だ。鈍感であるから、「してあげる」という言葉を無意識的に使っていることにすら気づいていないことが多い。

わたしは別に、「わかっていただきたく」などない。

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心のはたらき。「気づく」「助ける」「考える」「わかる」は自然に起こる。少し様子が変であると気づく。しんどそうな人を助ける。相手の気持ちを考える。わかりたいと思う。

そこに作為がないゆえに、そうしたはたらきを通して人は他人とつながることができる。自分の自然な心のはたらきが他人へ向かうとき、その心のはたらきを向ける側は「わたしの目」ではなく「人間の目」を持っている。

この「人間の目」にわたしたちは救われるのではないか。混じりけのない心のはたらき、自然と湧きおこってくる相手へのまなざし。それは「わたし」や「あなた」を超え、人間が根本で通じ合う視線である。

「気づいてあげる」「助けてあげる」「考えてあげる」「わかってあげる」には、「してあげるわたし(あなた)/していただくあなた(わたし)」がいる。この隔たりがある限り、どこまでも「わたし(あなた)/あなた(わたし)」という枠の中からすべてを見ることになる。わたしとあなたはどんなに体が近くとも、どこまでも遠く隔たれる。

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人の心にはふしぎな力がある。自然と起こる心のはたらきは、どこまでも自分のものでありながら、そのはたらきが他人と自分を一瞬にしてつなげることがある。近い人、遠い人、好きな人、見ず知らずの人。

ときどき、動物の本能のひとつに「つながる」があるとしたら、人間は「つながる」にとても適した種族ではないかと思うことがある。インターネット通信が発達して誰とでもつながれるようになったなんて、そんなケチな話ではない。目を合わせただけで、手に触れただけで、言葉を読んだだけで、音を聞いただけで、わたしたちは「つながる」を知る瞬間がある。

人と人とがつながるはたらきは、かならず「わたし」のなかから生まれてくる。そのはたらきをできるだけ邪魔しないように生きていきたい。「してあげる」などとつまらない作為なく、「する」がわきおこるに任せて為していたい。それが、人間として生きることのこの上ない喜びのひとつではないかと思う。

藤坂鹿

藤坂鹿

立春生まれ

Reviewed by
haru

「してあげる」が良い人だと思われる世の中は、間違っているのかもしれない。心のはたらきを阻害するような、そんなことをしてはないだろうか。近づこうとして、遠く隔たられることになりやしないか。

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