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2F/当番ノート

「痛みと傷」の不思議

当番ノート 第49期

痛いと感じるから傷が表れるのか、傷があるから痛いと感じるのか。

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わたしたちが「傷」という言葉を使うとき、たいていの場合はそこに「心」が密着している。傷つけられた、傷つけた、傷が深い、傷が癒える。傷には痛みが伴うが、傷も痛みも目には見えない。だから、自分や他人の傷の深さがどれほどのものであるかも、その痛みがどれほど苦しいのかも、もちろん目に見えない。ゆえに、傷をめぐるわからなさと向き合うことはとても難しい。

いや、ほんとうは難しくないのかもしれない。傷による痛みを感じることと、その痛みをどう考えるかということは別の領域の話だ。感じるのは心であり、考えるのは頭である。けれどもわたしたちは頭で考えることばかりに慣れてしまい、傷そのものを「感じる」という仕方でただ捉えることが難しくなっている。だから、目に見えないそれらと向かい合うことが、ひどく難しく思われる。

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傷とは何か。「傷」を、具体的なかたちとして想像するのは難しい。嫌な思いをしたときに、自分が傷ついたと感じる。かなしいとか、つらいとか、そういう嫌な思いの生じるところに、どうやら傷はあるらしい。

傷と嫌な思いはどちらが先なのだろう。嫌な思いをすることでそれが傷として表れるのか、傷が生じた結果、嫌な思いをするのか。そもそも、傷と嫌な思いを分けて考えることはできるのだろうか。

思いは、意識に明確に現れる。自分がそう感じたことが自分にはっきりわかる。かなしい、つらい、しんどい。

傷はどうだろう。「傷ついた」と感じるとき、最初から自分が「傷ついた」とわかることは、実はそう多くはないんじゃないだろうか。

傷は初め、「えっ」とか「うっ」とか「ん?」とか「なんで?」みたいな、違和感のかたちをしている。時間が徐々に経つにつれ、頭が状況を整理できるようになると、「あれは嫌だったな」とか「どうしてあんなことを言われなきゃいけないんだろう」という気持ちになってきて、そこで初めて「ああ、自分は傷ついたんだ」と気づくことになる。痛みが生じた瞬間に「はい、今わたしは傷つきました!」とわかることはそう多くない。

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頭と心にはそれぞれ役割がある。頭は整理し、分析し、考える。心は、感受し、反応し、知らせる。

頭は、いつも考える。起こった事態をまずは受けとめ、いま、自分の外側と内側に何が起こったのか、客観視を試みる。時系列を追ってひとつひとつの事件や事態を分析し、「だから自分はこれに違和感を覚えたのだ」と結論を出して初めてかなしいとか、つらいとか、あるいは怒りとか、そういった感情が湧きおこる。この間、わずか数秒から数分。感情は、頭によって一瞬で行われる高度な計算の後にやってくる。

けれども心は、頭と全く異なるメカニズムで動いている。傷を感じた瞬間、それは敏感に反応し、ほとんど反射的に違和感という出力を意識に返してくる。心は、頭よりずっと速くずっと敏感で、即座にあらゆるものに反応する。心はいち早く自分を守ろうとするから、「これはまずいぞ」と感じたとき、感情という洗練されたかたちとしてでなく、信号のように粗く、しかし確実な警告を発する。

頭は心の感受や信号をとめることはできない。しかし心の言いなりになっていると疲れ切ってしまうので、頭はそのうち、心を無視するという術を覚える。

無視された心は、それでもあらゆるものを感じ信号を発し続けるが、頭がそれを一旦無視すると決めると、心と頭はどんどん離れ隔たれてゆく。遠くなればなるほど、頭は「心は何も感じていない」と考えるようになる。そうやって時間が経つにつれ、気がつくと頭は、心が何をしたいか、何を嫌がっているのかがまったくわからなくなっている。

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痛みは、心の領域のものである。しかし、傷は頭の領域のものではないだろうか。痛みを真っ先に知るのは心であって、その痛みを傷として認めるのは、頭の仕事なのだ。だから頭は、心からの信号を受けとめたとき、判断に迷うことがある。「これを傷として認めるべきか」。

「こんなことで傷つく方がおかしい」と、頭が痛みを傷として認めようとしないことは多々ある。痛みを感じるのは嫌なことであり、痛みと向き合うのは面倒なことでもあるから。けれどもそうして下された「これは傷ではない」という結論は、痛みを心が感じていないといこととはまったく異なる。

痛みは常に自分のものとしてしか経験することができない。自分がこのことにどれほどの痛みを感じるのか、なぜ自分はそれを痛いと感じるのかが重要なのであって、その痛みの強さを他人と比較することや、その痛みが正当なものであるかどうかを判断することは何も意味がない。それはすべて頭が勝手に下している判断に過ぎず、心の感じる痛みとはまったくべつのものなのだ。

傷は、頭によって痛みが傷として認められなければ生じることができない。 痛みは傷のかたちになって初めて、人はその痛みについて知ることができる。 痛みと傷はそういう関係にある。

わたしは、人はもっと積極的に傷ついてよいと思っている。あえて自分を痛めつけようということではなく、痛みを感じたらそれを傷として積極的に認めればよい。痛みを傷として認めず、心を無視してしまうと、痛みつくした心はいつしか何かを感じることも、発することもできなくなってしまう。しかし頭がそのことにすら気づけなくなったとき、人はいともたやすく壊れてしまうのだ。

心と頭は、どちらか片方だけでは道を踏み外すが、組むととても強い。痛みを感じる心と、傷として認め向き合う頭の両方があって、初めて人は痛みと生きていけるようになる。生きている以上、痛みはかならずついてまわる。人は人のなかでしか生きていけず、人は皆どこまでも自分のことしかわかることできないからだ。どうやって痛みと生きていくかを考えることとはすなわち、どうやって人と生きていくか、ということだ。

藤坂鹿

藤坂鹿

立春生まれ

Reviewed by
haru

「痛み」と「傷」は同時に発生するものなのでしょうか。
「頭の使いすぎ」によって私たちはその「痛み」を無視してはいないでしょうか。
見えないフリをし続けてきた先にあるのは、何なのでしょうか。

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