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2F/当番ノート

上老尺老

当番ノート 第7期

「あなたは上老尺老、上老尺老、とずっと弾いてるだけでいいから。はい、行くよ」
簡単に言うけど上老尺老(ドレミでいうとソミシミ)って、指使い的に、けっこうキツいフレーズなのだ。僕みたいに薬指を使ってしまう半端者(三線は基本的に薬指を使ってはいけないことになっている)は、薬指と小指がツリそうになってしまう。
しかし、地元の流派の師範である先生とその一番弟子の女性(ムツミさん)に挟まれて、さぁ一緒に弾こうと言われてビビる間もなく合奏が始まってしまった。知らない早弾きの曲で、僕の上老尺老の通奏音に先生とムツミさんが自在に音をからめ、その三丁の三線の上でムツミさんが唄う。
こんな風に書くと、なんだか僕はそこそこ三線弾ける人、みたいな感じだけど、腕前は全然大したことなくて、上老尺老の単純な音形でついていくだけで精一杯だ。いや、実際はちゃんとついて行けもしない。僕の上老尺老が危うくなると先生の三線がさっと援護に入り、僕の音に重ね弾きし、僕がもちなおすと先生はまた通奏音形を離れていく。自転車に乗って誰かの原チャリにつかまってごんごん加速していくような(やったことないけど)、自分の能力以上のものを引っぱり出され、走路に乗せられる。
これは凄い体験だった。名人二人に並走されて、ぐいぐいと音の渦に乗り入れていく感覚。上老尺老はソミシミだから絡む音によって Em にも CM7 にもなる。左右の奏者によって僕の弾く「音形」が「音楽」に引き上げられる。ものすごい快感なのである。

なんでまたこんなプロと合奏することになったかと言うと、そこは宜野座にある三線工房で、先生は三線製作者でもある。さすがに本物の三線は無理だけど、ウッドボディで作る板張り三線の製作教室があって、気軽に入ってみたら、まさかまさかの、竿(ギターでいうところのネック)を削り出すところから作らせてもらえるのだった。
角材を鋸で切り、形をノミやナイフで削り出し、ヤスリで整形し、カラクイ(ギターでいうペグ)を通す穴をリーマーであけ、木製の共鳴銅と竿を接合し、弦を張り、うまく鳴らなければ微調整で竿を削り、音のビビリをとっていく。4~5時間かけて、みかけは不格好だがそこそこ音の鳴る板張り三線が出来上がる。カンカラ三線のウッドボディ版を想像してもらえばいい。
そのできたての三線に先生がエレアコ用のピックアップをとりつけた。
「ちょっとは弾けるんでしょ。じゃ、上老尺老って弾いてみて。タッカタッカ跳ねるリズムで」
ピックアップをとりつけたのは、先生とムツミさんの弾く革張りの三線に音量で負けるからだが、アンプを通すとウッドボディの少し籠った音がさらに不思議な響きを帯びた。
「はい、行くよ」

あれから10年。柔らかい材木で出来ている竿は少し捩じれが入ってしまい、奇麗に鳴らなくなったが、あの10年前の合奏は今でも思い出す。
音の渦に巻き込まれていくあの感じ。「音形」が「音楽」に引き上げられるあの感じ。

・・・・

音の渦に乗る、というこの体験を、さてどう話として展開させていくかと考える。そう、今僕はアパートメントの原稿を書いているのである。
三流とはいえ写真家なのであるから、写真の話に着地させようと考えている。俗にいう「写真の神様が降りてくる」状態の、自分の発想以上の大きなものを撮らされる感覚、との類似性についてさっきから考えを巡らせている。

でもやめた。
「あの感じ」を、何かの喩えにするだとか、あそこから何かとの共通項を引っ張りだすとか、そういうの、ちょっと違うな。
「音楽」をやってる人には、ありふれた体験なのかもしれない。でも、僕みたいな下手ッピーからすれば、あれは宝物のような時間だった。変な喩えであの愉悦の記憶を擦り減らすのはやめよう。

音楽っていいねー。
写真もいいけどね。

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