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2F/当番ノート

「魂を売る」の不思議

当番ノート 第49期

女子高生の皆さんに訊きたい。使い古して捨てるつもりの下着や制服を、数千円から数万円で「その手の筋の人」に売ってほしいと言われたとしよう。さて、売るか、売らないか。

絶対にイヤ、という人もいれば、自分が売ったことが誰にも知られないなら考えるという人もいるだろう。中には、写真や「オプション」なんかをつけてもっと高値で売りたい、という人もいるかもしれない。

使い古した下着を売って何が悪い? そういうのがお好みの人はそれで愉しむんだろうし、あたしはお金が手に入る。誰にも迷惑をかけないし、誰も傷つけないじゃない。

さて、はたして、ほんとうか。下着を売っても、たしかに目に見えるものは何かも失われていない。なのに、何かがひどく損なわれるような気になることを、あなたはよく知っているんじゃないだろうか。

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ビジネスマンの皆さんに訊きたい。このプロジェクトを実行したら、自分たちには確実に経済的な利益がもたらされるが、一部の利害関係者に不利益が生じるか。けれども、不利益が生じた原因が自分たちにあるとバレる可能性は低い。さて、やるか、やらないか。

少しでも誰かが割を食うならばやらない、という人もいれば、バレないならいいと考える人もいるだろう。中には、隠蔽工作を完璧にして、満を持してやるべきだという人もいるかもしれない。

儲けることの何が悪い? 資本主義ってのはそういうものだ。市場は誰かが割を食うようにできている。そのなかで生き抜けるタフネスと賢さがなければ、淘汰されるだけ。自然の摂理ってやつ。

さて、はたして、ほんとうか。弱き者の境遇を想像して、一瞬心が冷たくなったんじゃないか。悪徳商売を正当化する自分がとてもダサいだろうこと、どこかであなたは予感していなかっただろうか。

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お金や地位や名声なんかを得るために、人が倫理の道を外れることを、「魂を売る」という。「売る」とはつまり、売るものの価値を別の価値と交換することである。では、先ほどのような場合、いったい何「売る」のだろうか。

下着売りや悪徳商売に限らず、何かに対して「これはやっていいんだろうか」というためらいを持った経験が、誰しも一度はあるだろう。そのためらいには、「やっていいのか」だけでなく「『こんなことをやってはならない』という気持ちを無視していいのか」という葛藤も含まれる。つまり「やるべきではないという自分の気持ちにウソをついていいのか」という葛藤である。

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この葛藤のもとを、わたしは「倫理」と呼ぶ。倫理は、自分が傷つくことにとても敏感だ。自分にとって善くないことをしたとき、自分にウソをついたとき、たとえ頭では「こんなことは何でもない」と思っていたとしても、倫理は自分の魂が傷つくことをしっかり知っている。

倫理とは、魂を守る盾である。魂の品位を高く保つには、ほんとうの善を為すしかない。なんて言うと気取った言い方だが、「それってなんか人としてダサいからやだな」と感じるとき、その人はその人の倫理にしたがっている。自分が自分に恥じる行いをしたとき、人はその魂を傷つける。

ほんとうに善は「絶対の善」であり、「自分”だけ”にとって善いこと」とはまったく異なる。たとえば、誰かに損をさせることで自分だけが儲けることは、まったく善ではない。絶対の善とは、かならずすべてに通じている。すべてにとって善であるから絶対の善であり得るのだ。誰かにとって善であり誰かにとっては悪であることは相対的な善でしかない。

倫理は、絶対の善を嗅ぎ分けることができる。それは、絶対の善が魂を引き上げ、相対の善が魂を傷つけることを知っているからだ。ためらいとはつまり、倫理による警告である。

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さて、「魂を売る」とき、人は何を売っているのか。身も蓋もない話だが、「魂を売る」は何かを売っているわけではない。倫理はその人のなかのものでありいくらお金を積まれようとも売れるものではない。いくら金を払ったところで、愛を買えないのと同じことだ。

金銭を得ることと引き換えに、自身の倫理の声を殺し、魂を傷つける行為を「売る」側が「魂を売る」と呼んでいるだけである。「売る」と表現すれば、あたかも倫理や品位が切り売りできる物質であるように錯覚できる。そうすれば、それらを損ない失うことが、何か物質的なモノを損ない失うことであるかのように感じられる。

モノは自身と切り離すことができる。だから倫理や魂をモノと捉えたほうが、精神的に楽になれる。もしそれらモノであれば、たとえそれらが損なわれても、自身と切り離すことができる。つまり、損なわれても自分が傷つかずに済むからだ。

けれどもあたりまえだが、倫理や魂は非・物質であり、自分と切り離すことも不可能である。目に見えず切り離せないもの損なうことのほうが、見えて触れるモノを損なうことよりも遥かに痛手を追うことを、「魂を売る」という表現は自ら証明している。

「魂を売る」は、血の流れないリストカット、あるいは肉体の死なない自殺行為に等しい。自分の倫理を殺し魂を傷つけることが善でないことは、誰もが一番よく知っている。それは、それらが体と同様に「自分」を構成する最も大きな要素であるからである。

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「魂を売る」ことで得た金は、ロクなことに使われない。少なくとも、絶対の善を為すために使えるはずがない。それを知るはずの倫理を自らの手で殺めてしまったのだから。そのときだけ楽しいこと、つまり相対的な善に使われ、あっという間になくなり、ひどい虚無がやってくる。その苦しさから目をそらす人は、さらに魂を売ることの泥沼にはまり、虚無を虚無で満たそうとする。そうなってしまったら、心身ともに滅びる手前まで、とめることはできない。

下着一枚、売ったからって何なんだ。ここでちょっとあこぎな商売で儲けたからって何なんだ。そう思うだろう。けれどもそれがあなたの魂に見えない傷を刻んでいる。そして人間の頭は、倫理の声を押し殺せる。けれども、あなたが自分にとっての善だと思ってしたことがほんとうの善とは限らないことを、決して忘れるべきでない。

藤坂鹿

藤坂鹿

立春生まれ

Reviewed by
haru

あなたは「魂を売って」はいないだろうか。
倫理に背いた行いを許してはいないだろうか。
まるで冷や水を浴びせられたような感覚で、立ち止まる。
振り返った先にあるのは、魂の言葉なのかもしれません。

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