昔一時期、ペンタコンシックスという東ドイツ製の中判カメラ(6×6)を使っていたことがある。ビオメターという名の標準レンズの写りが美しく、カメラのデザインもなかなかかっこよかったのだが、肝心のカメラボディが一癖も二癖もある大変な代物で、フィルム1本(12コマ)に1~2コマは必ず妙な露光ムラが出るとか(シャッター幕の走行に変な癖があるらしい)、そもそも露出自体安定しないとか、コマ間隔が適当でたまに重なったりするとか、おそろしく難儀なカメラだったので、耐えきれずに一年くらいで手放してしまった。
困ったカメラではあったが、昔のスクエアフォーマットのネガを見ていて、今見ても「おっ」と手が止まるのがペンタコンシックスで撮られた率が高い。他にもブロニカやマミヤや海鴎などいろんな中判カメラを使っていたけれど、思い込みかもしれないが、ペンタコンシックスで撮ったものは、風景を写したものでも何か妙に儚げで、しかし細く緊密で、ひりひりくる感じが多いのである。
1本に1~2コマ必ず露光ムラの被害が出るとわかっているから、撮るときにも最初から「どうせ・・・」という諦念のようなものがあり、しかし撮りたいというものに出会ってシャッターを切るのであるから、せっかくならちゃんと写ってほしい、という祈りのようなものも込められる。その相反する気持ちのせめぎあいのような、変な空気が写ったんじゃないかと、半ば信じており、ほんとはそれほど信じていない。
最近もう昔話になりつつあるのが恐ろしいが、このカメラに限らず、フィルムカメラで撮っていた時代には、撮って写真にするという工程のここかしこに、地雷のように失敗の種が蒔かれていたものである。
ライカでフィルム装填に失敗して気づかず、36コマ撮った気でいて1枚も写っていなかった、という失敗が、恥ずかしいが2回ある。裏蓋が開かない(底を開けて行う)ライカのフィルム装填は注意が必要で、スプールの隙間にフィルム先端を差し入れてレバーで巻きとるのだが、これがよく滑って抜けるのだ。フィルム先端をちょっと折っておけば絶対に失敗しないのだが、なぜかこのことを書いてくれている親切な本や雑誌はほとんどない。
あれ、わざと書かないのだろうか。痛い目に何度か遭ってから這い登って来いとでも? ユーザーをを千尋の谷にたたき落とすライカ、底意地悪すぎである。その2本72コマがちゃんとギアにさえ噛んでいれば、その中に恐るべき傑作写真が残されていたであろう(負け犬には遠吠えする権利がある)。
撮る、フィルム現像をする、そのネガをプリントする。
プリントの失敗は、まぁ、もう一回やり直せばいいわけだが、対してフィルム現像は失敗できない部分である。実は僕は今まで何千本もフィルム現像してきたくせに、いまだに10本に1本くらいは暗室でフィルムをリールに巻くのをヘマする。引っ掛けてうまく入らず押し引きするうちに端っこを折ってしまったり、端ですめばいいが、たまには画面の中にまで折れ痕が入り込んでしまったりすることもある。
総じてあまり丁寧な性格ではないのである。
普通、何千本も現像していれば、ヘマをしたときの反省というのが嫌が応にも染みてくるはずだ。タンクやリールにも何種類かあるので、自分に合ったものをもっと探してテストしてみるとか。普通はそうするだろう。
そういうことをしないところが、雑、を通り越して、何かあえて失敗を呼び込みたいのかお前、みたいな疑いを、自分自身に対して抱くことにもなるのである。
分析するに、高層階の窓から身を乗り出して下をみたら一瞬飛び降りたくなってしまう、みたいな、人間にはあっちの世界を恋うる部分が、否定しがたくあるのだ。死にまで至る生の高揚がエロティシズムであるとかのバタイユも言っている(ちょっと違うか)。
ペンタコンシックスでいい写真が撮れたのは、「それほど信じていない」とは書いたものの、やはり「ちゃんと写ってるとは限らない」という諦念が裏返った切実な希求、というものがあったからだと思っている。
だいたいからして、このカメラで撮れば12コマに1〜2コマの確率で露光ムラが出るとわかっているのに、当時のネガを見ても、僕は同じ写真を二回撮るという、やって当然のフェイルセーフをまったく行っていない。諦めることを自分に強いている。潔さ、とはまた別の話である。人事は尽くさず天命に委ねてみる。ねじくれた被虐欲求である。
結果的に、こんな難儀なカメラ、とついにこのカメラを放出したことで、僕の中から抜け落ちてしまった何か、というのがありそうだ。それを今さらながら惜しむのも詮無い話だが、だからといって記録媒体メーカーに「10コマに1回の割でランダムに記録に失敗するCFカードを作ってください」とお願いしたところで(しないけど)、あのペンタコンシックスが生み出した儚げかつ緊張に満ちた画が撮れるはずもない。
目の前の世界を写しとりたい。飲み込んでしまいたい。そして、どうせ消えてしまうんだ、という諦念のもとにシャッターボタンは押される。
何もこの難儀なカメラだからというわけでもなく、写真というのはそういうものだった。そういえば。