「サラリーマンなんて割りに合わないよなあ」
電車のドアが開いてすぐ、そんな声が聞こえてきた。目の前にいる若い男の子が、連れに愚痴をこぼしながら電車を降りた。男の子は新卒くらいの年頃で、スーツとピカピカした靴を身につけていた。仕事でなにか嫌なことがあったのかもしれない。
仕事は嫌なことが多いし、割りに合わないよね…って、頭の中からそんな声が聞こえてくると思った。だって、これまでのわたしだったら、絶対にそう思っていたはずだったから。
-Are you really think so?
だけど、一番最初に頭に浮かんだのは、それとは逆の問いだった。
男の子たちは、次の瞬間には仕事帰りの無数のスーツ姿の中に紛れ、声しか聞こえなくなった。わたしもスーツの人々の中を前後左右に気をつけながら歩いていく。わたしの周りのスーツの人々は、どんなことを考えて歩いているんだろう。わたしと同じように、男の子たちの声が聞こえているはずだった。ここにいる人々の半数以上は、おそらくみなサラリーマンで「割りに合わない」生活をしていることになるんだろうか。この人たちも、わたしと同じように自問自答しているのだろうか。前を歩く男の子たちの声は、階段の上から降ってくるように聞こえ続けていて、わたしは頭の中に広がっていく違和感をずっしりと噛み締めていた。
わたしも、きっと以前は男の子の立場だった。社会に出て働くことに対して据わりの悪さを感じていて、彼らと同じように割りに合わないよねって言っていた思う。ぼんやりした未来予想図を、はるか遠くから眺めるようなうな手応えのなさを感じながら。経験も少なかったし、自分の働きがどのように社会と関わっているのか、どのように人の役に立っているのかを、あまり明確にイメージできていなかった。
この違和感はもしかしたら、わたしがもう彼らの側ではなく、サラリーマン側として生きることに慣れてしまったということなのかもしれないし、社会人としての最初の一歩から、もう一歩、先に進んだことの現れなのかなって。それに、働くことは割に合わないことばかりじゃないって、どこかで思ってるからかもしれない。
たしかに、自分の頑張りがなかなか成果に結びつかなくてやきもきしたり、イライラすることって誰にでもある。こんなに時間をかけているのに、こんなに情熱を注いでいるのにって思いながら、自分の努力に対して、見合った結果や、見返りがないことだって少なくはない。そういうときは、なにもかも嫌になったりするし、誰の顔も見たくないし、話したくないって思ったりもする。(or may just be a me thing…) だけど、喉元過ぎたら、また頑張って働いて、手探りしていくのが現実だ。
なにせ、働くということは主体的な行為なわけで、「働かされている」と思っている間は、多分割りに合わないと感じることもあるだろう。働くことの本質は、割りに合う合わないということより、いかに自分の労働が人の役に立っているかという実感だったりするんじゃないの、と生意気ながらに思う。
例えば、東京でもたくさんの雪が降った翌日のこと。職場の近くの十字路には大量の雪が積もっていて、歩くのさえ大変だった。そんな中、十字路沿いに建つ武蔵野銀行の50代くらいの職員さんが、早朝から道路の雪かきを一生懸命にやっていた。銀行の出入り口の周りはすでに綺麗にされていて、彼らは横断歩道付近につながる、点字ブロックの周辺の雪や氷を必死で取り除こうとしていた。信号が青に変わったら銀行のビルの近くにはけて、赤になったらさっと作業を再開して。
この一連の雪かきは、銀行の利益になるかといえば、言うまでもなく直接的な利益にはならない。だけど、それが「割りに合わない」仕事なのかといえば、そうとも言い切れないとわたしは思う。その姿をみて、ただ素直に有り難いと思ったし、この銀行の社風はきっと良いのだろうなって思った。朝から銀行にくる人や、近くを通る人、点字ブロックを必要とする人のために環境を整えることは極めて利他的な行いで、たとえそれが会社の利益にはならなくても、ものすごく価値があることだと思う。わたしの思い込みや、推測でしかないかもしれないけれど、きっとお父さん世代の職員さんたちは、自分の仕事を無駄な時間だった、割りに合わない仕事だったとは思っていなかったんじゃないかと思う。自分たちがやっていることが、誰かの役に立つってわかっているはずだから。
この世には、お金になる仕事とならない仕事っていう区別はたしかに存在する。いくら頑張っても雀の涙ほどの金銭しかもたらさない仕事もあるし、働く人によって報酬が雲泥の差になるような仕事だってある。この世には貧困に苦しむ環境もあるし、理不尽な搾取に苦しむ人々がいることは無視できないけれど、お金になることだけが価値を持っているわけじゃない。損得勘定なしで、一生懸命働けることを無駄だとは思わない。自分の思い通りの成果が出なくても、働き続けることが無駄だとは思わない。働くことが自分を、家族を、隣人を、他者を豊かにし、それらの繋がりの中で、成長させていることは間違いのないことだから。得られる対価が多いか少ないかだけが、働くことの価値ではないから。
でもね、サラリーマンが「割りに合わない」という実感は、きっと若い男の子の「今」の嘘偽りのない心境なんだろうね。今はそうだとしても、このさき彼らが、ほんのちょっと別の角度から、働くことを見つめることができるようになっていればいいなと思う。そのほうが、彼ら自身の働き方を豊かにして、心を豊かにしていくと思うから。働くことは、一生続くことだし、自分が今やっていることに、自分なりの価値を見いだして、一生懸命に向き合うことができたら、きっと割りに合わないなんて思わなくなると思うよ。マインドフルに生きること、働くこと、自分の働きが社会でどんな意味があって、どんな価値があって、自分の立っている場所を自分がきちんとわかることで、別の見え方ができてくる。
若い男の子が投げかけた小石が、水面を震わせて、水面に映るわたし自身の今をはっきり見せてくれたし、自分はここまできたんだってことを改めて感じさせてくれた。ようやく、本当の意味で、わたしは社会人になれたのかもしれない。きっと彼らもわたしと同じようなことを考える日がくるだろうし、それが働くことの一面なのだ。そしてふと気付いたのは、駅の中の無口なスーツ姿の先人たちもきっと、そういうこともわかった上で歩いていたんだってこと。