「先を譲れるか」
電車に乗るときのことだ。朝、いや、朝でなく他の時間帯でも、渋谷、新宿、東京駅など、人が大きく交差する場所に行けば行くほどに、モヤっとする光景に出くわすことも多い。
プラットホーム、乗車を待ちかねて並ぶ人たちの中には、電車が来るやいなや、車内から出てくる人たちをお構いなしに、ターゲットの座席だけを目指して、なんとしてでも自分が座るべくお隣さんたちと小競り合いをはじめる。妙な心理戦が繰り広げらるのだ。譲るでなく、奪う、がここにはある。たった数十秒のことなのだが、人間の醜悪が十分に詰まっている。
大の大人がどうしたことか、なんとも滑稽だなぁ、といつも感じる光景だ。この「我が先に」という精神は、一種の都会的病とも言えるかもしれない。競争することが当然で、だけど何と競争しているのかわかぬまま、自分の疲弊にも気づかないまま競争をしてしまうような、見えない相手との途方にくれた闘いであるかのように。
「べとべとさん」という妖怪がいる。こいつは、人に危害を加えることもない。小さかったときのことを思い出せば、夜道、誰かが後ろから付いてくるような感覚はなかっただろうか。誰もいないはずでも、暗闇は五感を狂わせ、感度を増し、想像力をも高める。ピタピタと草履のような足音が聞こえたら、そこには、べとべとさんがいる。こういうときには、道の傍らに寄って「べとべとさん、先へお越し」と口にすると、音がピタリと止み、気配もなくなる。
恐怖でうろたえているときほど、焦り、急ぎたくもなる。だからこそ、早く前へ前へズイズイと進みたくなるが、ちょっとした勇気を持って、一歩立ち止まり、一声かける(向き合う)ことによって、恐怖はなくなる。そのことを、べとべとさんは象徴しているが、これはきっと、暗闇の夜道にかぎったことでもないだろう。
なぜ、電車の乗降時、どうぞお先に、と彼らは譲ることができないのか。それは、会社が、仕事が、という社会の構造に追いやられ、急がないと罰則を受けてしまうことへの恐怖が無意識的にあるからではないだろうか。少しでも寝たいから、休みたいから座ってやる、という自己の労りも、根っこにはその構造問題がある。
このときの”暗闇”とは、東京という街自体が持つ、人を人でなく機械たらしめる見えないなにかのこと。実体がないはずのものが追っかけてくる、どこまでも自分を追尾してくるようななにかに怯え、我先にと焦り急ぐことで我を無くし、自分の先を譲ることができない。なにかにしがみ付いてしまっている状態とも言える。
しかし、ちょっと待ってほしい。ここで、べとべとさんという妖怪を、傍道に寄り「先へお越し」と譲ることでなくなる恐怖もあることを思い出してほしい。こわいときほど、一度手放してみるのだ。先に、自分の前を進んでもらうことで、姿を捉えられる。見えないものに追われるよりも、見えるものを追えたほうが、気持ちはいくぶんも楽じゃあないか。
べとべとまとわりついてくる厭なものの振りはらい方は、案外、簡単なのだ。譲りゃあいい。自分がなんとなしに朧げながら大切にしているものを、先にどうぞ、と他人に譲ってしまえばいい。そもそも、競り合うべきは、他人でなく、自分自身でしかない、とは誰かがよく言ったもんでしょうに。そうすれば、べとべとさんは喜ぶに違いない、あなたも喜べるかもしれない。
この妖怪、(ビビらせてはくるので)憎たらしくも、(気づかせてはくれるので)愛くるしい。
「妖怪をのぞけば、暮しと人がみえる、自分がみえてくる」を仮説に置きながら、勝手気侭な独自の研究を進めていくのが、超プライベート空想冊子『暮しと妖怪の手帖』。妖怪を考え、社会を考え、人を考え、自分を考え、現代における“妖怪と人の共存”のあり方を模索していけるようなダイナミズムを持ちたいと思っています(嘘)。