どうもウェブメディアが騒がしい。議論されているテーマはさまざまだが、「情報を正しく伝える」というメディアの最低限の役割について考えてみたい。
早速だが、弊六(へいろく)をご存知だろうか。姿は赤鬼のよう、*御幣(ごへい)をふりかざして走る妖怪である。御神託と称しては、偽りの情報(いわゆる、デマ)を流し、人々を混乱に陥らせ、世を騒がせたと存在とされる。
(*御幣・・・紙や布を細長く切って、細長い木に挟み、神道の祭祀において神に供えたり、神主がお祓いをするときに使用する祭具のこと)
弊六は、1784年に鳥山石燕が描いた『百器徒然』に出てくる。ただ、こういう話もある。江戸時代、茨城県にある鹿島神宮では、その年の豊凶などを神託で知り、各地に告げまわっていた神人がいたという。それを「鹿島の事触」をいうが、弊六はその神人の姿に似ており、彼らの中に弊六が混じっていたのではないか、という話。
説明ばかりになってしまったが、冒頭のウェブメディアの話に戻そう。この問題がネットで騒がしくなってから、ずっと弊六という妖怪が頭に浮かび上がってきた。つまり、時代を超えて、次元を超えて、インターネットの中にも弊六が現れちまったなぁ、と感じたわけで。
この問題、単なる”語弊”が原因であれば、少しはマシだったかもしれない。そうではなく、そもそもの情報に虚偽があったことが問題だった。もし、そのような情報を流していたことに対する意識が当事者になかった、としたなら余計に質がわるい。
純粋なまでの商業信仰がそうさせたのか。あるいは、”編集長不在”のままに情報を扱っていたのがよろしくなかったのではないか。大小なりとも、メディアという船の舵をとる編集者は、弊六であってはならない。消費の海をただただ進む、いつしか沈んでいく泥舟を増やすだけだから。
情報を扱うことに対する危機感のなさは、飛び火して、「記事を安価に大量生産する」問題にも着火したが、これは弊六マインドを持ったライターを多産することになっただろうし、ライターの価値をいささか下げたのではないかと感じる(逆に、”ホンモノ”について考える一つのきっかけになったかもしれないけど)。
発信する側だけの話ではなく、偽りの情報というのは、いつのどの時代にも蔓延っているのであり、受信する側の情報を見定める力を試されてもいる。そういうのを、メディア・リテラシーというのだろうか。
素直に受け取るだけでなく、一歩引いて、斜めに構えてみたりなんかして、半信半疑で、「ちょっとは、疑ってみたら?」という教訓を示してくれるのが、弊六という妖怪なのかもしれない。
どうせ口にしたり文字にするなら、だれかの中でおいしい実がなる情報であれ、とメディアの豊穣を願う。
「妖怪をのぞけば、暮しと人がみえる、自分がみえてくる」を仮説に置きながら、勝手気侭な独自の研究を進めていくのが、超プライベート空想冊子『暮しと妖怪の手帖』。妖怪を考え、社会を考え、人を考え、自分を考え、現代における“妖怪と人の共存”のあり方を模索していけるようなダイナミズムを持ちたいと思っています(嘘)。