渋谷の街中をぶらりとしていると、キャッキャと甲高い声でおしゃべりしながら、移動する女子大生らしき子たちが4人で歩いている。
自分が学生のときを思い出した。そういえば、沖縄という田舎から上京したのもあって、渋谷というのは行くのにエネルギーがいる場所なんだけど、少しテンションがあがる街だった。
そして、さきほどの女子大生たちも、ぼくらから見ればただ「遊んでいる」ように見えるのだが、彼女たちからすれば、大事なイベントであって、「忙しい」真っ最中なのだろう。
今思い起こせば、ぼくの場合、学生のときのほうが、今ほど暇が少なかったかもしれない。部活にバイト、遊びなどコンテンツは目白押しで「すぐにスケジュール入れたがる病」を患っていたからだ。
いい感じのスケジュール帳を買って、それを埋めていき、「忙しいなあおれ」と自分に酔いながら、それをこなしていく快感を味わっていた、のだと自分の学生時代を振り返ると感じる(ああ、カッコ悪かったなあ)。
でもよくよく考えてみたら、この大都会・東京には、忙しい大人ばかりの社会が広がっているのではないか。学生のときとは種類の違う「忙しい」かもしれないが、いつもバタバタとしながら、駆け足がちな人は多い。
さて、こういう人を見かけると、「いそがし」という憑き物のような妖怪を思い出す。
こいつに憑かれると、やたらにあくせくして、じっとしていると何か悪いことをしているような気分になり、逆にあくせくしてるほうが、奇妙な安心感に包まれるそうだ。
江戸時代につくられた絵巻などにも登場している。あくまで憶測だが、その頃から、江戸の人はあくせくしている人がいて、その風刺画的に生まれた妖怪なんじゃないだろうか。
ぼく自身の体験でいえば、社会人がはじめってから、同じようにあくせくする日々が続いて、仕事でのモヤモヤをごまかすように、休日を消費的にあそび、結局何が残ったんだろうという虚無感があったのを覚えている。どこかで「大きな鳥かごのなかで飼い慣らされている」ような気分に陥ったこともある。
目の前にあることにきちんと向き合っていくことはそれはそれで大切なんだけど、次から次へとやってくることばかりを見つめ、これからの未来のことだったり、自分がやりたいことを真摯にじっくりと考える暇を持てていなかったあの頃(もしかしたら、今もそうなのかもしれないけど)。
一つの傾向として、都会の会社なり社会というのは、自分のことを考えることを許さないシステムになっているような気がする。ある人は、それは「東京にはたらく不思議な引力」と比喩していたが、妙が得てだと思う。
本当は、自分たちが「どんな暮しをしたいのか」「どういうふうに働けると気持ちいいのか」など、社会や他人のためだけでなく、「自分のため」の選択肢について考える時間は、かなり貴重なはずだ。人生とは時間のことでもあり、その時間を望まないものに捧げている状況があるとしたら切ないことでもあり、それを世知辛いとも言うのだろう。
そうやって自分のことでなく、社会や会社のために「忙しい」ことが絶対的な善であると考える頭になっていたら(あるいは、その思想にズルズルと引っ張られているとしたら)、妖怪・いそがしがニヤリとほくそ笑んでいる。まんまとやつらの術中にはまったいるのだ。悔しくないか、ぼくは悔しい!(笑)
「忙しくしすぎちゃいけない」
そんなことを考えている社員がいたら、正直、会社では使いづらいかもしれない。反乱分子みたいなものだろう(笑)。同じように、好んで妖怪について考える人も、歯車(論理)性を欠いているように見えるので、一般的には煙たがれるに決まっている。
でも、自分が考えたいことについて考えるための時間は、ちゃんとつくっておけるといいよね、と主張したいのはあるわけで。タイムイズマネーなわけでしょ。どうやって時間を使うのを、もうちょい慎重になってもいいはずだ。選択できているように見えて、選択できていない今を変えるには、まず気づくことからなんじゃないのかな。
じっとできない大人たちへ、「ああ、いそがしい」は、いそがしが憑いているのでご注意を。たまには、足と手を止めてみて、休んでみたり、じっとしてみるのもいかがでしょ。
*妖怪を考え、社会を考え、人と暮しを考え、現代における“妖怪と人の共存”のあり方を模索しながら、勝手気侭な独自の研究を進めていくのが、超プライベート空想冊子『暮しと妖怪の手帖』です。