思い込みが強いタイプの人間は、少なからずいる。相手の言葉に耳を傾けることなく、自分が絶対的に正しい、と信じてやまないような人が。その様は、言い方によっては、ヒステリックとも形容できるのかもしれない。
ここでひとつ、河童の話をしてみたい。
日本の妖怪のビッグスリーといえば、鬼・天狗・河童あたりだろうか。そのため、それぞれ多様化しており、天狗であれば、「木葉天狗」「烏天狗」などのように種類も分かれ、それだけの逸話が日本各地に残っている。
さて、河童の話だった。「正吉河童」をご存知だろうか。
豊後(大分)の日田群に、白糸嘉右衛門という相撲取りがいたそうだ。その息子は、親譲りの力持ちで、名を正吉(しょうきち)といった。
ある日のこと、正吉が三隈川で水浴びをしていると、足の裏を何者かに引っかかれた。すると正吉は、水に潜って、姿を確認できぬまま、その”何者か”を懲らしめてやった。その夜中、また水浴びをしたくなった正吉は、川のほとりへ出かけた。すると、水中から子供が二、三人ほど現れる。
「お前は相撲取りの子だから、相撲は得意だろう。だから相撲をとろう」
そう言われて初めて、正吉は、その子供たちが河童であることを悟る。相撲をとると、二匹まではやっつけた。しかし、次々に水中から現れる十数匹もの河童に囲まれてしまうことに。
同じ頃、息子の外出があまりにも長く、心配になった嘉右衛門は、正吉を探しに行くことにした。すると、正吉が川辺にいるのを見つける。よく見ると、正吉はただ”一人で”荒れ狂っている。家を連れて帰っても、門の方を睨んでわめき続けたそうな。
これは河童と相撲をとっていたに違いない、そう考えた嘉右衛門は、修験者に力を借り、祈祷によってようやく元に戻ったという。
河童が子どもにイタズラするも失敗し、その報復として相撲を挑み、子どもを狂わせた。という話なのだが、これは、”思い込みの強いタイプの人間”を象徴したような話にも聞こえる。
正吉が河童に苦しめられ、ただ一人で荒れ狂ってしまっているような心理状況は、現代でも変わらずにある。
「自分、がんばってます。がんばってるのに、なんで周りの人は認めてくれないんだ?」というのも、「あの人は自分のことが嫌いに違いない!」というのも、「ああいう思想の人は、悪でしかない」というのも、全部もしかしたら、河童と相撲を取り続けている人なのかもしれない。
視野が狭くなっている人ほど、河童と闘っている。そんな気がしてならない。祈祷してる修験者なんてのはそうそういないが、現代は、昔よりも(オンラインを通じて、あるいは、遠くに行って)自由に、すばやく、自分とは違う価値観を持った人と出会える。
つまりは、祈りの代わりに、多種多様な人に触れることはできるのだ。ちゃんと彼らの言葉に向き合うことができれば、河童に憑かれた心も、元に戻るのではないだろうか。
正吉のような、河童が見え、あまたの河童とたたかっている人の状態を、「一人相撲」というらしい。相撲はちゃんと、相手がいてとれるほうが健康的だ。思い込みなんかで、相撲はとりたくない。
「妖怪をのぞけば、暮しと人がみえる、自分がみえてくる」を仮説に置きながら、勝手気侭な独自の研究を進めていくのが、超プライベート空想冊子『暮しと妖怪の手帖』。妖怪を考え、社会を考え、人を考え、自分を考え、現代における“妖怪と人の共存”のあり方を模索していけるようなダイナミズムを持ちたいと思っています(嘘)。