子どもの頃のカブトムシ・クワガタ捕りは、灯火にやってきたものを捕るのであったり、父と見つけた毎年複数匹のコクワガタが棲む木にピンポイントでじっくりと目を凝らすというのが主だった。それらはある程度「そこにいる」ことが分かっている確率の高い方法である反面、いなければもうその日はどうにもならなかった。だから胸の高鳴りは車が目的地に着くまでにどんどん盛り上がって、ポイントの木を見始めるときに最高潮を迎え、後は上がったり下がったりしながら緩やかに落ち着いていくのだった。行きの車中の、父の隣の助手席の記憶がやけに色濃いのはきっとそのせいだ。
他方、懐中電灯を持って夜の山に分け入って行くというやり方では、たとえ確率は低くとも、どの次の瞬間にも絶え間なく虫たちと出会う可能性がある。緊張と興奮は高めの水準のまま、心地好く押し寄せたり引いたりした。後に私と父の釣りの師匠になる、父の会社の村田さんと行った夜の生駒山のふもとがまさにそうだった。父と村田さんがカブトムシの目の光を求めて懐中電灯で高い枝を照らすのを、私は昂ぶった気持ちのまま眺めていた。その日の目ぼしい収獲はカブトムシの雌と小さなノコギリクワガタだけだったけど、その夜の記憶は脳細胞の絡み合った奥深くに染み込んでいる。
もう20年近く捕ることも飼うこともしていなかったのだけれど、つい先日久しぶりにカブトムシを手に取った。甥が近ごろ虫に興味を持っていると父から聞いて、帰省の折にホームセンターのペットショップで買っていったのだ。カブトムシの季節ももう終わりに差しかかって、ケースに残っているカブトムシたちはみな角も小さく、土の中に大人しく潜っていた。その中でもそこそこ元気そうな一頭を選んで、セッティングした飼育ケースとともにプレゼントした。果たしてどういう反応をするのだろうか、と思っていた甥の第一声は「かわいいなあ」で、甥の優しさにとても温かい気持ちになるとともに、まもなく迎えるカブトムシの死に甥はどう直面するのだろうかと少しだけ心配になった。