1)
紅葉、イチョウ、楓。
そして名前をしらない、木々の落とし物。
かしゃかしゃとブーツをくぐらせて、ふわりと巻き上げる。
秋の出口に、お約束のように思い出すことがある。
10代の昼下がり、
盛大な紅葉の中にゴロンと寝転がったら
友達が私に落ち葉をかけていった。
葉っぱ布団はふんわりと軽くて、いい匂いがした。
おそらくその何日か前に雨が降ったのだ。
「さあ、願いを全部いうんだ!」と友はおどけた。
私はぽつぽつと話して、どんどん素直になって
好きな人が好きだとわかってくれればいいのに、と言った。
20代のある夕方
好きな人と歩いていた。山の道を。
紅葉を見上げたその人が手を伸ばした。
私はその先の燃えるような赤を見ていた。
命を出しきって色付ている。そんな感じがした。
1年前におばあちゃんが亡くなったことを考えていた。
2)
30代の朝、今日
自分の吐く息が気泡になって、海面に上っていくのを見上げている。
ガイドさんが熱心に魚の名前を教えてくれているけれど、頭の中では、全然違うことを考えている。
かつて、ダイビングに明け暮れていた1ヶ月があった。
こんなふうに機材を背負って、少しだけしょっぱい海が混ざる酸素を吸って、無我夢中で、ダイバーたちの群れについていった。
渓谷を抜けて、沈没船の中を通り、
海底に広がる砂漠に静かに座ったりした。
私にとって旅は身に纏っていく行為だけど
海に潜るのは、削ぎ落としていく行為だ。
海から上がると少しだけ頭が痛くなる。眠くなる。
短い昼寝をした後、あの頃の私は海辺のカフェに通っていた。
バックパッカーが集まるエジプトのダイバーズ宿で、私のカフェ通いは「贅沢だねー」と揶揄されていたけれど、あの時間で書いたのが、最初の本「10年後ともに会いに」の初稿なのだから、かけがえのない、純度の高い行為だったんだと思う。
海に潜るのは6年ぶり。
本当はもっと早く、潜りに来たかった。
でも、私は自分の中に海を宿していた。
体にまだ海の重力がまとわりついていた。
余計な力が抜けて、余計な考えも消えて
罫線だけの真っ白なノートに
思いつくままを、書ける喜びに浸った。
11月の始まりから12月の始まりまで。
ー家のみんなでしおの753を撮った
ーちーちゃんが家に遊びにきて、おかえり、と言った。
ー父の古希
ー助けることと助けられることについて考えるー9ヶ月ぶりの飛行機、旅の仕事
ー相変わらず、本を書いている。