アット・ザ・スパニッシュフォレスト

第38期(2018年4月-5月)

 なぁ、どうして、こんな異国の地で、夜中の三時に森の中を歩いているんだ。僕に明確な答えがあるかと言えば、そんなものは無かった。しかし歩き続けるのが僕の精神ならば、それに、ただ柔順に従おうではないか。答えを手にするのは、すべてを終えた後なのだろうから。

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 二日前、ある不思議な宿に僕は泊まっていた。そこの主人というのは、鉱石をすり潰してできた粉末で絵を描くのだという大それた芸術家であり、いくら飯を食おうが、ベットを占領しようが、彼が金銭を求めることはなかった。紺の柔らかそうなズボンに白いTシャツを身に着けた清閑な若者である。病み上がりであったこともあり、彼の家の清潔な便所が私を強く引き付けたことも、この宿に泊まることになった一因であろう。この場所は、どこか世間離れしたところであり、また同様に世間離れした連中が集まるところであった。私は、ベジタリアンの好みそうな昼飯を腹に押し込み、手巻きタバコを吸ったり、物思いにふけっているような顔をしながら、二階のソファや、玄関のただ木を置いただけのようなベンチに腰掛けて時が過ぎゆくに任せた。言葉を発する気力すら失われていた。人々はそれぞれが思い思いの行動をとっていた。飯を作るもの。芸術家にある種の感情を抱いて、行動を共にするもの。ベンチにすわり、他愛のない会話を繰り返すもの。クルミを無心で食らい続ける男。インテリ気取りの女。聾唖のドイツ人。美しいイギリス娘。薄汚れた日本人。健全に駆け回る犬。まさしく、るつぼといったとこだ。時間の流れがやけにスローに流れているのを疲れ切った脳で感じとった。昼飯とさして変わらぬ晩飯を食い終わると、我々は玄関のベンチに集まった。木製の長椅子は円形に組まれており、その中心に、焚火をやるための祭壇があった。芸術家が器用に薪を組み上げると、彼は新聞紙にライターで火をつけ、薪木の真ん中にそれをくべた。火が生まれた。暗闇のなかに、ひとつの生命のようにそれはあった。火は何とも不思議なのであり、人々の視線をいやに強く引き付けてしまうところがある。半ば感傷的になって、僕らは焚火を見つめていた。ドイツからやってきたという若者が、おもむろにアコースティックギターを弾きだした。彼の名はダヴィデといった。背が高く、十分な肉付きの好青年といったところだ。髪の毛も目の色も同様に黒であり、どこか親しみさえ感じさせた。動物と心を通わせるのがうまかった。人一倍耳が良いその男は、トランペットやチェロの音色を唇から自由に生み出した。そこらに転がっている、棒切れやタンバリンを手に取り、周りの人間はリズムを生み出した。上等なリズムを感じ取ると、ダヴィデはニヤリと笑った。彼は歌った。英語の歌を歌った。即興で歌詞を、言葉を並べた。日本からやってきた僕のことを歌った。火の周りを幸福な空間にしていた。しばらくして、彼は訪ねた。
「君は歌うのかい」
「えぇ、歌えるわよ」金髪の女が答えた。
「好きな歌は」
女が歌の題名を言うと、彼はいともたやすく、そして極めて優しく旋律を弾きだした。声楽をやっていたというその女は、美しい声でそれを歌い切った。再びダヴィデが口を開いた。
「君は、いや人々は、「私は歌うことができる」というよね。他にも「私はダンスができるよ」とか。でも、それはおかしいと思うんだ。それってのはつまり、それ以外の人間は歌うことも踊ることもできないって言っているのとおんなじことなんだよ。そんなことはないはずだ。僕らは歌おうとすれば、踊ろうとすれば、それができるはずなんだ。僕は歌や楽器の弾き方を学んだことはない。歌うときは、ただ、さぁ歌うぞって思っているだけなんだよ。僕らはもっと人間の可能性を信じるべきなんだ。そう思うよ」
「確かに、そうね。いい話だわ」女は返した。焚火ではなく、何もない地面を見つめていた。彼女は、彼の話を聴いてはいなかった。聴いているふりをして、心にしっかりと鍵をかけていた。僕はそれを見逃さなかった。ほかのやつらも、大体そうやって目を背けていた。僕はダヴィデの方を向いた。彼は、僕を見ていた。頷いた。彼も、少しうれしそうに頷き返し、女の方に向き直った。

「もし、やろうと思えば、僕らは一日で100キロだって歩けるはずだよ。それは決して不可能じゃあない。現に、僕は巡礼の初日に40キロ以上も歩いた。それもピレネー山脈越えを合わせて、だよ。」
「40キロ、ピレネーを超えてですって。そんなのおかしいわ。馬鹿げてる」
「でも、できるんだよ。自分を信じさえすれば」
彼の話は、例えば町役場の定時連絡放送のごときであり、彼らの心の表層をかすめるだけで、その奥底に染み渡ることはなかった。それでも、この僕の心には、真水に絵の具が溶け込むように、トンっと入り込んできたのであって、もはやその場で唯一、彼を理解しようとしているのは僕と彼自身だけであった。
寝床に向かう階段で、僕はダヴィデに話しかけた。
「ダヴィデ、さっきの話だけどさ」
「ポテンシャルの話かい」
「あぁ、俺はあの話、すごく好きだぜ。だからさ、明日か明後日か、俺はサンティアゴ・デ・コンポステーラまでの百キロをいっぺんに歩いてみようと思うんだ」
「大丈夫。できるさ」
「ほんとに、ありがとう。愛してるぜ、兄弟」
「ふふ、僕もだよ、兄弟」
僕らはきついハグをした。その胸は、強靭だが柔らかさを持っていた。体温と共に、二人は愛を交換しあった。抜け殻の身体に、ダヴィデの偉大なラヴが流れ込み、血液となって僕を満たした。幸福な、男であった。

 歩きつづけた。いたってシンプルだ。前に進みさえすれば、それでよいのだから。足を止める理由はなかった。足を進める理由があった。夕方の六時をすぎた頃から他の巡礼は姿を完全に消した。足跡だけがそこらじゅうを埋め尽くし、特に道の真ん中には深い跡が残っている。道の両側に古い石塀がある。ひとつひとつの石はすっかり風化し、表面が荒く削られ、石と石の隙間から草が生えている。南の方から風が強く吹き、石塀にぶつかると渦が生まれ、砂を巻き上げる。ほこりがあたりに広がる。僕は左腕で顔を覆うが、ほこりが口に入り込むので、地面に向かってペッと吐き出す。スペインの夏は日が長い。それでも辺りはゆるやかに夜へと近づいていた。日の当たる場所と、木々の下では明るさがまったく違う。何度もライトをつけたり消したりする必要があった。空には昨日から雲が張っていた。それがグレーを帯び始め、色はますます濃くなった。八時をこすと、恐ろしいほど早く日が落ちていく。村が終わり、木々が現れ、いつしか森が始まる。昨日とは違い、まだ安心していた。ヘッドライトが僕の道を示す限り、ただ前へ行けばよい。今や、それが可能である。天空に浮かぶオレンジ色をした球体は、鈍い雲ごしにもがくように幾度か瞬き、僕の網膜に緑の残像を焼きつけた。最後にあがいて、山に隠れ込んだ。ライトを消す必要はなくなった。夜が、この国を、森を、村を、荒れ地を、石塀を、川を、そして僕を支配した。コォーと自動車が走る音がした。どうやら国道の近くまで来たらしい。時折木々の間を縫うようにして、車は森を照らした。道は、国道を避ける一匹の蛇のごとく、くねりながら西へ続いた。小さな森と小さな村をいくつか抜けた。そのどちらにも、生物の気配は存在しなかった。自動車の音が耳に入ると、僕は安心できた。黒い恐怖が、身体に入り込むのを感じていた。坂を下ると、大きな街に入った。そこはメリデといった。薄汚れた石造りの家々を通り過ぎ、公園の上り坂を抜け、清潔な住宅街へと入った。丸いオレンジの街灯が道をほのかに照らしていた。湿ったアスファルトがその光を下から受け止めていた。夜の巡礼にしか見られない光景だろうな。なおも坂を上っていると、その途中に小さい犬をつれた老人が立っていた。前を通り過ぎようとしたところで、彼は話しかけてきた。
「アルベルゲを探しているのかい」
「いや、今晩はずっと歩いてようと思うんだ」
僕のスペイン語は全く通じなかった。そして彼の話も僕には理解不能だった。まぁ、言葉が通じたところで、事態が好転していたかどうかは分からないが。ある程度しゃべったところで、あきらめたらしく、彼は家へともどっていった。
「アディオス」
どこか投げやりに、彼は別れを告げた。
「あぁ、アディオス」
再び一人になった。歩くことを考えた。だが腹が減ってきた。断ち切れそうにもない。九時を回っていた。これほどの街だ、バーの一軒や二軒はあるだろう。坂を上りきる手前で道は二手に分かれ、それに挟まれるようにピザ屋があった。店の前にいくつものテーブルと椅子が並べられ、プラスチック製の椅子には雨水が溜まっていた。店からの明かりが辺りを照らしている。ピザ屋と言っても、ハンバーガーやケバブ、ポテトのフライに酒まで飲める、どちらかと言えばバーのようなところであった。スペインの飯屋とは大体どこでもこんなもんだ。僕はタバコを吸うために、店に一番近い外の席を選び、椅子の雨水をはらってそこに腰かけた。注文を済ませ、買ったばかりのバニラの香りの手巻タバコを吸っていると、さらさらと小雨が降りだした。
「中へ入るかい」飯屋の主人が訪ねた。
「いいのかい」
「もちろん。でもタバコはだめだよ」
「わかってるさ」
吸い終わってから、中へ入った。雨はさっきより強くなっていた。部屋の中は暖かく、それに清潔だった。頭上に置かれたテレビで映画をやっていた。海の上で、巨大な怪物とロボットが壮絶な殴り合いをやっていた。吹き替えはもちろんスペイン語だ。たいして興味も持たずにそれを眺めていると、僕は何か、不思議な感覚に襲われた。こうやって落ち着いて映画を見ていることがあまりに非日常なことに思えた。もはや、旅が僕の日常になっていたのだろう。
「雨は続きそうかい」僕がたずねた。
「あぁ、そう思うよ。ちょっと調べてみるよ。うん、やっぱりそうだね、今夜は雨だ」
ジーンズを履いた店の主が答える。
「そうか、ありがとう。助かるよ」
バーガーとコーラを終えると、僕はバックパックの中身をとりだして、すべてをゴミ袋に詰め込み、また元通りにしまい込んだ。そして日本で買っておいた百円の薄いレインコートをかぶった。
「グラシアス」
そう言って、僕は店を出た。彼の笑顔は最高だった。坂を抜けて大通りに出る。矢印は左を指しているのでそれに従って道を左に折れる。雨はしばらく止んでいる。わずかに車が行きかい、街灯が白い光で街を照らす。車道に挟まれた広場には石づくりの噴水があり、光を受けて水を吐き出す。どこかパリの街に似た、美しい街であった。いくつかの角を折れると、家はしだいにボロくなり、再び暗闇のところへ戻ってきた。雨がまた降りだした。それが恐怖であると理解する前に、足早に森の中へ飛び込んでいった。

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ライトの明かりを手で押さえると、周りは真っ暗で何も見えなくなった。ただ、明かりの中の世界が僕の全てであった。雨にぬかるむ泥の道があり、両側に木々が並んでる。空は、見えない。しかしそれらも、光の中から出てしまえばまた元の黒色に戻されてしまう。絶えず世界の一部を切り取るようにしながら、僕は前に進んだ。雨が降り始め、フードを深くかぶる。耳とビニールの擦れる音がいやに生々しく、大きな音で聞こえる。雨がレインコートに打ちつける音が耳の近くで響く。目が見えないぶん、耳は行き過ぎなくらい敏感になった。僕はそれまで見ないようにしていたもの、それが心に生まれ、そうして全体に広がりつつあるのを知っていた。知ってはいたが、それに気づいてしまえば足が止まりかねないことも知っていた。僕は恐怖を感じていた。それは夜への恐怖であり、森への恐怖であり、最も厄介なのは野犬への恐怖だった。ただ、野犬というものが果たしてこの国に存在するのかどうか、僕は知らなかった。知りもしない恐怖を自分で作り上げ、自らそれを恐れていたのだ。茂みが揺れ、ガリッと音がするたびに、その方を注意深く見た。けれどもそこには何もなかった。立ち止まって、数秒の間、物音がした方を目を凝らして見続けた。僕の体を360度恐怖が包みこんだ。それが皮膚から、体内に入り込みつつあった。メリデに、戻りたかった。あの暖かいピザ屋に帰りたくなった。でも振り返ってしまえば、事態が悪化するような気がした。前に進む以外の選択肢はとうに失われていた。森を深く進み、沢の上の丸太を渡る。二手に分かれる道から正しいほうを選び取る。昼間ならば容易なことも、きわめて慎重に、注意深くやらなければいけない。失敗してしまえば、だれも助けには来やしない。一つの森を抜けた。そこは小さな村だった。くねくねとカーブを描きながら坂を上がっていく舗装道路のそばには庭付きの家が何軒かあった。家からは明かりが漏れていた。僕もそこに加わり、暖かい夕食を囲みたかった。坂を上って、再び森に突入した。僕は恐怖していたが、森はなにも仕掛けては来なかった。道を用意し、ただそこを歩かせた。まるで怪物の体内を探っているようだった。幼いころ、おなじ恐怖を覚えたのを思い出した。親父にひどく叱られ、家の奥の真っ暗な部屋に押し込まれた。夜十時くらいだったろうか。部屋には電気をつけるスイッチがあったが、頭が回らず、泣きじゃくって出してくれ出してくれと叫びまわった。白く塗られた木製のドアを何度も叩いた。どれだけ頼んでも親父は戸を開けようとはしなかった。見渡しても周りは完全な闇だった。疲れ果てて、僕は床に倒れ込んだ。ほおに床の感触があった。目をつぶって、闇が闇であることを分からないようにした。その方が幾分か楽な気がした。闇に包まれているんじゃなくて、ただ目をつぶっているだけなんだ。結局あの後どうなったのだろう。
「アォン」
犬が鳴きやがった。だがそれは番犬の威嚇だとすぐに分かった。なにせ森を抜けて、また名も知らぬ小さな村に着いていたからだ。家の前を通るたびに犬たちは大声で吠えたてた。
「うるせぇ、黙ってろ!」
しつこい鳴き声が苛立たせるやがる。神経も過敏になっている。それでも森がやってくる。朝五時になれば早起きのいかれた巡礼たちが歩き始める。それまでの辛抱だ。まだ十二時を少し過ぎたところだった。時間の過ぎるのがやけに遅かった。再び森を抜けると、道は左右に弧を描きつつ下っている。道のすぐそばに家に、巡礼のための休憩所がある。板切れを組んだだけの粗末なベンチと机があり、その上に誰が置いていったかミネラルウォーターが置いてある。尻が濡れないようにレインコートを下に敷き、一休みすることにした。俺は何でこんなことをやってるんだろう。ダヴィデと約束したからか。じゃあなぜそんな約束をしてしまったんだ。そうだ、俺は自分ってものを信じてやりたかったんだ。二十歳あたりで行きついてしまった答え。
「俺にはなんの才能もないんだ」
一年半悩みに悩んだ。しだいに大学へ行かなくなり、部屋にこもるようになった。カーテンを閉め切った薄暗い部屋でひたすら自慰行為とインターネットの中に逃げ込んだ。身体が、精神が、腐っていくのを感じていた。誰ひとり、咎めることはしなかった。傷つくこともなかった。ぬるくなった湯舟のなかにいつまでも浸っているようだった。
「ゆやま」
玄関のドアが勢いよく開いた。
「行くぞ」
肩の向こうに日の明るさがまぶしかった。
彼は僕を連れ出した。色んな景色を、二人で見た。たくさんの空気に二人で触れた。街へ出かけ、人々と交わり、山を登り、夜道を行った。身体と精神とはしばしば限界を超えた。彼は僕を育てた。僕は彼を受け入れた。憧れた。分厚い背中を追いかけ始めた。気がつくと、僕らは二人で歩いていた。一方が前に進むと、もう一方は歓喜と嫉妬とを混ぜ合わせた。そして再び横に並んだ。そこに待ち構えていたのが、「僕らは何をすべきか」という青年期特有の魔物であった。僕らはふたりで悩んだ。悩みに悩みぬいた。出した答えは、旅に出ることだった。
弱い雨が降っている。村は静かだ。家には明かりがついている。闘う理由を、僕は持っていた。ゆっくりと立ち上がり、レインコートをかぶる。
「グラシアス」
僕は再び歩き始めた。坂道を下り、森へと入り込んだ。恐怖が始まる。黒い恐怖が身体にまとわりつく。鼻から息を吸い込み、手足に意識をもっていく。右手には杖を握っている。
巡礼たちは皆こうして杖を持って歩く。それは伝統的なやり方であり、実際に身体を支える武器になる。僕の杖は特別なものらしく、中に真鍮製のねじが仕込まれていて、三つに分解することができる。滑らかにコーティングされており、持ち手のあたりに花の模様が刻まれている。杖の先も真鍮で作られており、鋭く突きさすような形をしている。その先でもって、地面をとらえる。ぬかるんだ地面に、それはよく刺さり、十分に効果を示す。ブルゴスで買った革の靴が重みを増す身体を受けとめる。強く地面を蹴り、前に進む。申し分ない。恐怖がすり寄ってくるたびに、闘う理由を思い出すようにする。そうすることで、自分を縛り上げるようにしながら、歩き続けることができる。景色はたいして変わらない。木があり、道がある。地面は雨水をすっかり吸い込んで濃い茶色をしている。現実の世界を旅していながら、精神世界に落ち込んでいた。黒い闇がそうさせたのだ。透明な水に泥が広がっていくように、恐怖は時間をかけて心を覆いつくそうとする。僕は気がつかなかった。それがあまりに緩やかに進行していたからだ。闘う理由が、失われていた。いや、失われたというより、それすらも木々や地面と同じように闇に飲み込まれてしまったのだ。心が完全に黒く染まった。夜の中で火を起こすように、僕は色んな人間の顔を心に浮かべようとした。日本の友人たち。道の上で出会った旅人たち。笑った顔。僕に向ける優しい眼差し。ひとつ浮かんでは消え、次の顔を思い浮かべて、また消えゆく。焚火に火がつかない。頭が狂いそうになる。死を感じ始める。目をつぶる。しかしここは安全な家の中ではない。目を開く。最後にたどりついたのが、あいつの顔だった。僕を陰鬱な世界から救い出し、日のもとに連れ出したあの男の顔。色黒で、頬にいくつかのできものがあり、黒い瞳の内に確かな光を見せるその男が笑いかける。ろうそくの火が風に消されるように、彼が心から溶けてなくなっていった。僕はすべてを失った。

 なんだ、ここは。
俺は、何だ。
 光りはどこへ行った。
 俺はどこへ行こうとしている。
 
雨は止んでいなかった。精神は終えようとしている。背後からにじり寄る闇から逃げるかのように、歩き続けていた。それは歩き始めた時とは事態が、というより僕の存在自体が逆転していた。つまり追うものから追われるものへの変化だ。もし、この暗闇の中で歩くことを止めてしまえば、夜という怪物の胃袋にすっかり消化され、道や木々やその他のものとおんなじように僕は黒く塗りつぶされてしまうんじゃないだろうか。これが悪い夢だったらいい。僕の拙い脳が生み出した幻想であればいい。目が覚めると、そこは木枠の二段ベットの上で、ほこりのついた天井を見上げながら、あぁそうだった、俺はスペインに来たんだったなと思えたらどんなに良いことだろう。それが不可能だということを、僕はよく知っている。もし雨さえ降っていなければ。恐怖はいくらかましになっただろうか。それも不可能だ。現実は今この手にあるカードだけであって、それで勝負するほかはないのだ。夜、闇、誰にも声の届かない深い森、孤独、異国、木の杖、革の靴、しばらく風呂に入っていない薄汚れた体、おそらくすべてを失った精神。無理だ。僕に勝ち目はない。ワンペアすら成立していない。対する相手はこの世界そのものである。恐怖は精神を完全に支配していた。僕の領土は余すところなく黒く染まってしまっていた。どうやってこの世界から逃げ切るか、そのことだけを考えた。情けない話だ。現実世界と精神世界とは面白いほど綺麗に一致していた。ただ、黒色であった。心臓がいやに速く鼓動し、無意味に歩き続ける。そんな精神で抜けられる世界ではないと、分かってはいる。素直に、恐怖していた。
もう一度だけ、僕は心に火をくべようと試みる。おおかたマッチは擦ってしまっている。それでも、そうしないわけにはいかない。死にに来たのではない。よりよく生きるために、僕は歩いているのだ。精神のポケットをまさぐり、残っているマッチを探す。友人は燃え尽き、家族はそもそもそこに含まれていない。兄は七年前に自死している。そうして、僕は一つのマッチ棒を探り当てる。丁寧に取り出して、それを擦ってみる。火が灯る。黒く覆われた世界にふわりと浮かび、僕はそこに一つの感情を付け加える。光は少し広がり、闇との均衡を保つ。最後に現れ、恐怖を止めた人。たったひとりの女性。満月が夜高く上り、闇の中でそれでも光り続けるように、彼女は僕の中空に舞った。
「愛してるよ」
とたん、僕は自由になった。恐怖は光に照らされ、その効力を失っていく。彼女への愛を心の中心に据えたとき、森や夜への恐怖は消えてなくなった。なんだ、ただ夜に森を歩いているだけじゃないか。なんのことはない。ここは情熱の国で、風が吹き、僕は自由だ。さっきピザ屋で映画を見ていた時に感じた、あの感覚を再び思い出した。あぁ、全く非日常じゃないか。僕は少し興奮していた。もう、大丈夫だ。これなら、どこまでだって行けるはずだ。興奮と自由と愛とを混ぜて、僕は歩き始めた。体は軽く、坂道を難なく乗り越えていく。村と森との違いはもはや意味を持たなくなった。どこにいようと僕は光に照らされ、歩くことができた。時おり犬の鳴き声がしたが、それはただ番犬が吠えているにすぎないのだ。何も心配はいらないじゃないか。行こう、この道を。ライトに照らされた雨が、白い線となって目の前を通り、時に小さな蛾が光の方へ飛び込んできた。山を抜け、村へと入り、再び山へと入るということを何度か繰り返した。雨の音と、レインコートのすれる音だけが聞こえた。歩みを止めることはなかった。時間はとうに一時をこえていた。身体は私の精神によく反応し、疲れを見せることをしなかった。

あれからどれだけの森を超えただろうか。内向きに自身を守るように縮こまっていた精神は、外を向いて無限に広がり、風のようになって木々をなでていく。ライトで白く照らされた世界の外側にも、世界はおなじように続いていた。つまりはこういうことだ、長く続く夜さえ攻略できたのなら、僕らはどこへだって行けるのだ。