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流れ着く頃には。

それをエンジェルと呼んだ、彼女たち。

もうすぐ夏がやってくる。ここ数年の夏は身構えてしまう暑さで楽しみばかりじゃないかもしれない。にも関わらず、高校生の頃に親友と過ごした海辺での思い出は、都合よくいい顔をした夏だけを思い起こさせて私を浮き足立たせる。

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私たちは海辺で育った。お互いの家から自転車で20分くらい行くと、もう海は近かった。夏になると途中のコンビニでアイスを買って屋根のついた海辺の休憩所に急いだ。そこはベンチと自販機があるだけの質素な場所だった。海の正面に立っているので海風がまっすぐに届く。清掃員のおばちゃん以外には人も多くない。

学校のことも家族のことも音楽のことも友だちのことも、私たちには常に話したいことがあった。それがこの場所だと一層陽気になって、どんなことを話していても最終的に笑えて仕方がなくなるのだった。海の前でいつまでも笑っていたことを思い出す。あの愉快な気持ちは一体どこからやってきたんだろう。

その場所にふたりでいるだけで笑いが止まらないくらい幸福だったんだと思う。その充足した関係は、大人になった今はほかのどんな関係とも置き換えることができない。

あの頃の自分たちが懐かしい。「何よりも」大事にお互いを思っていて、友だちとも恋人とも家族ともつかない、特別な存在。何よりもと思っていても、「ほかの何か」を知らない頃のことだ。知らないのにそう思えた自分の想いの直線さに、今ならちょっと呆気にとられる。

海の前に並んで同じ水で生きているような気持ちのしていた私たちも、高校を卒業したくらいから別々の人間にならざるを得なかった。それぞれ違う景色、違うルールに身を置いて。「絶対ありえない」と彼女が言ったことを、私が「あり」だと思っていたり、「絶対良くない」と私が言ったことを彼女は「あり」だと思っていたりした。

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江國香織の「ホリーガーデン」に登場する静枝と果歩の友情に少し似ている。それぞれが子どもの頃からの友だちで、お互いの小さなエピソードを山ほど知っているあまり、大人になってからの変化に気後れしたり、どこか受け入れ難かったりするのかも知れない。何かにつけて「あなたらしくないよ」とつい、言いたくなってしまう。

海辺は今でも、細かいことはどうでもいいじゃないか、私はその子のことが「これからも」好きなんだ、という気持ちにさせてくれる場所だ。愉快な気持ち以外、世界に存在しないような瞬間を共有した者同士のつながりは強い。

連続する友情のなかで、互いの主張が逆になるような瞬間がかわりばんこにやってくることもあった。それぞれ経験した感情や葛藤を想像のなかで追体験してしまうからなのか。相手に許せないところがあるのが辛いからなのか。記憶も主義も、移り変わって入り混じっていく。そうして純も不純も混ざった海水になって、どこか遠い海辺にたどり着く。

その頃にはもう、少し前に知らない人のように感じた古い友人を、ただ大事に思いたくなっている。「根本的に人間は寂しい生き物だからね」と誰ともつかない、見知ったような言葉が脳内に響く。さびしいからなのだろうか。それだけでは情けないような感情だとしても、手を離す素ぶりをするよりずっといい。人は変わり続けるけれど、だからこそ与え合う言葉にも感情にも終わりがない。永遠のひとつの形を、彼女に見ている。

松渕さいこ

松渕さいこ

interiors 店主 / 編集・企画 東京在住
お年玉で水色のテーブルを買うような幼少期を過ごし、そのまま大人になりました。2019年よりヴィンテージを扱うショップの店主。アパートメントでは旅や出会った人たちとの記憶を起点に思考し、記します。「インテリア(内面)」が永遠のテーマ。

Reviewed by
ぬかづき

高村光太郎の「道程」という詩にこんな一節がある。
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僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
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人生もこんなものじゃないかと思っている。誰しも生きているのは今この瞬間で、そこから先、人生や自分自身がどう変化していくかは誰にもわからない。一方、振り返ってみればそこにはたしかに道ができていて、自分のたどってきた来歴がわかる。

自分も人も、この道のりを歩くあいだに変わっていくもので、あるとき道が重なってしばらく一緒に歩いた人でも、年月が経つと、知らずのうちに、まったく違う景色を歩いているようになる。(むしろずっと一緒の道を歩きつづけるほうが珍しい)。それは感傷であると同時に、それぞれがそれぞれの道を歩いているという確かな慰めでもある。

ただしここでポイントなのは、それが「道」であるということだ。離散的かつランダムにぽつぽつとスポットが現れるようなものではない。たとえ今は遠く離れてしまったとしても、自分が今歩いている道は、かつて、その人の歩く道と重なったところからつづいている道なのだ。このさみしい世の中で誰かの道と自分の道が重なるのは奇跡のようなことである。振り返って、道が重なっていたことを認めること、それでけでも十分に尊いことではないかと思うのだ。

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