断食、あるいは優しいということ

いとでんわ 第1期(2011年10月-2011年11月)

今朝目を覚ますと、秋の太陽を燦々と浴びていた。
私の部屋は、とりわけ朝にたっぷりと太陽の光を取り込む。
こういう日は決まって、世界は美しいのだということを実感する。
断食をしたすぐ後なので、目覚めもすこぶる良いのだ。

断食。
これは、これまでの人生の中でもちょっとないような感動を覚えたもののひとつだ。
たぶん、運動を生活の中に取り入れるのと同じように私にとって不可欠なものでもある。
精神修行をするわけではないので、水だけで何日も過ごすようなことはしないけれど、そういう風にして、私は自分の身体ときちんと距離を取っているのだと思う(距離を取るということがとても必要なのだ。どういうわけか)。
本来の断食の目的は2種類あるのだそうで、ひとつめは身体の中の老廃物を排出するためで、ふたつめは免疫力を高めるためだと言う。
空腹を通り越して意識がなくなりそうな瞬間に悟りを啓く、とも言われているけれど、その辺りのことはちょっとわからない。
でも人間というのは空腹時に免疫力が高まるので、だから「お腹が空いた」という時間を意図的に作った方が良いのだそうだ。
はじめて断食をした時、私にはとてもやりおおせそうにない、と一日目からすでに逃げ腰だった。
お腹が空いても食べられないというのは苛々するものだ。
私がしている断食の方法というのは、良質なプロテインとサプリメントのみを摂るというもので、プロテインはシェイクにして飲む。
だからお腹が空く感覚はそれほどないはずなのに、胃というよりも頭が食べたがっているようだった。
でも辛かったのは最初の内だけで、その効果は絶大だ。
一番長い断食は、8日間だった。
9日目の朝、あまりにも世界が穏やかなので驚いたことを覚えている。
身体はもちろん軽くてまるで別の人間の内臓が入っているかのようだし、味覚と嗅覚がとても敏感になって、8日ぶりの記念すべき朝ご飯はトマトとアボカドをほんの少しの塩で和えただけのサラダだったのだけれど、びっくりするほどトマトやアボカドそのものの味、なのだった。
それにしても、どうしてあんなに平らかだったのだろう、と思う。
それは思い出しても、気持ちがというよりも世界そのものが優しさに満ちていた。

優しさについて考える。
それは物体として目の前にあるわけではないから、優しさとはこういうものだと証明はできないし明確な定義づけをすることも、私にはたぶんできない。
自分がいくら優しくありたいと願ってもそう届くとは限らないし、逆もまた然りだ。
優しさについて思い出すことがある。
小学校1、2年生の時の担任だった白川先生のことだ。
男勝りの威勢の良い女性で、また大変厳しい方だった。
私はたぶん先生の荷物になるような生徒ではなかったけれど、叱られて泣いた記憶がいくつかある。
具体的に何をして、というようなことは思い出せないが、白川先生の叱り方はとても厳しく、優しかった。
その頃私をあんな風に叱る人は、思い出す限り白川先生だけだった。
叱られることは、嫌いというよりもほとんど恐怖だった。
そこにはいつも理不尽さや腹立たしさや憎悪が渦巻いていた。
それは私とはなんの関係もないものだった。
でも白川先生に叱られるときはいつも、優しさと、おそらく愛情と言われるのであろうもので溢れていた。
彼女がそういう性質の人だったのか、私との関係性においてことさらに発揮されるものだったのかはわからないことだけれど、私はあのときにすでに優しさを体感していたのだ。
体感したことは忘れるということがない。
それは身体の中の引き出しのような場所にそっとしまわれていて、然るべきときにだけ開く。
あれから20年以上経って、でも、優しいということがこんなにも難しいということにほとんど途方に暮れている。
それは、そうありたいと願うことも、そうあって欲しいと望んでしまうことも、ただ単純な優しさから外れているという気がしてしまうからだ。
たぶん、働きかけるということとは別のものなのだろうと思う。
働きかければ結果として優しく届く、ということはあるにしても。
特別な意味なんて必要ないのかもしれない。
それはたとえば、朝の太陽の眩しさのように浴びるだけで気持ちが良くなる、そこに意味なんてなにもない、ただなんとなく微笑みが浮かんでしまうようなもの。
世界が美しいというのはそういうことなのだ。

断食は私にシンプルであることの重要を思い出させてくれる。
そうしてそれは、かつて「食べる」ことが苦手だった子供時代の私とつながっているのだと思う。