出来るまでやる

第4期(2012年8月-9月)

最近ぼくの頭の中には、「出来るまでやる」ということばが常に浮かんでいます。

2011年に企画した杵島隆写真展「日本の四季」に展示したプリントは、1990年頃制作した和紙仕立てと呼ばれる大変珍しいプリントでした。経師の職人さんがカラー印画紙の乳剤の部分だけを慎重に剥がし、厚手の和紙に丁寧に仕立て直したものです。日本の職人さんの技術は、例えば新聞紙を包丁で二枚にすることが出来る程だそうで、水墨画などは、そうやって1枚を2枚にすることもあるそうですが、このような日本の巧の技と、写真の技術を結びつけ、カラー印画紙独特の艶やかな色彩と、手漉き和紙の紙目が溶け合って、モノとしても大変に魅力的なシリーズを展示する企画をやりました。ちなみに現在は、印画紙の構造が変わったためと、この作業を手がけた職人さんが現存しないために、再制作は出来ません。今私たちが見る事が出来るのは、50点近く制作した中から、他人の手に渡っていない20数点のみです。

先ほど、「和紙仕立て」と呼びましたが、このような方法で制作のノウハウが確立されているわけではありません。写真と和紙を融合させたいと思っていた杵島さんが、長い年月を掛けて考えだしたノウハウなんです。先駆にこのようなことをしていた人が居たわけではないのです。
つまり、満足のゆく仕上がりが得られるまで繰り返し「出来るまでやる」ということなんです。
これ、モノ作りの本質だと思います。
最近、うちに出入りする若い作家さん、学生さん、お客様など、日々のおつきあいの中で、しばしば、「これはどうやっているのか」「○と△を組み合わせたら、面白いと思いますか?」などと聞かれる場面がやたらと多い。芸術にまつわる素朴な疑問を持つ事は大事ですが、それを簡単に他人に聞いて済ませようとするのはいかがなものか。簡単に結果を求めようとするのは何故か?

モノを作る人ならば、結果は頭でイメージするのではなく、手を動かしながら自分が作ったモノに聞くのです。昨今は目的というか、ゴールをきちんと定めると、そこに到達するまでの行程をどう進めるかは、合理的に目標の最短ルートを考えることが良いとされていると思います。しかし、芸術的な価値観では必ずしもそれは当てはまらない。一見、無駄とも言えるような、時間の積み重ね。写真家の鬼海弘雄さんは、それを「皆さんには出来ないくらいの時間を積もらせているのですよ」と自分のモノ作りについて語って下さったことがありましたが、まさにそういうことです。

和紙仕立ての作品をご覧になった或るお客様で「今だったら和紙に出力できる」と考えた方がいました。勘違いしてはいけないことは、まず最初に、作品鑑賞で大事なのは「いかに作られているか」を見るのではなく、「なぜ、こうなっているのか?」を読むことです。もう一つは、「出来るかどうかも分からないことを出来るまでやろうとする発想と、今考えられる方法で限りなく良く似たものを目指そうという発想とは全く違うものだという事を理解しておく必要があります。これもまた、ゴールまで到達するに最短のコースを進もうとする発想から生まれるものであって、設定されたゴールも表現と呼ぶにはいささか器が小さい。

展覧会に足を運ぶ方の多くが、何が描かれているのか、いかに作られているかといった、作画上の「情報」を得ようとする気持ちで作品に向かわれているように感じます。これは、ぼくがこの世界に入ってきた20年前も現在もさほど変わっていない。アートに触れる事の醍醐味は、「何だこれは?」という大きな疑問に向き合う事。自分とは異質な感性に出会うことであって、安易な気分の共有とか共感だけではないと思っています。わけの分からない世界に足を踏み込んだときの戸惑いや背伸びをしたようなドキドキ感こそが、面白いんじゃないかと私は思うのです。
その作家さんが積もらせた時間の層に思いを馳せながら、眼前の作品と対話する。一体これは何なのか、この胸のざわつきはどういうことなのか?沢山の「?」を抱えつつも、自分なりの解釈を試みる。情報伝達の役割を越えたアートに触れて読み解き、作家さんの仕事に敬意をはらう。そういう作家さんとこれからも沢山出会いたいと思っています。

今回から2ヶ月間このスペースをお借りして、写真を中心とした表現のことについて、毎日仕事をしながらぐるぐると頭の中を駆け巡るあれこれを綴って行きたいと思います。しばらくの間お付き合い頂けますと嬉しいです。