無関心に関心を寄せる

第4期(2012年8月-9月)

ぼくの本籍地は東京都豊島区で、池袋駅から北へ少し進んだあたりらしい、ということは、自分の運転免許証で知っていました。ぼくの父親の実家は巣鴨・とげ抜き地蔵の近くで、池袋は隣の町ですから昔その辺に住んでいたのかもしれないのですが、その理由については祖父母も父親も亡くなってしまっていて、ついに聞けずじまいでした。本籍の場所なんか行った事がなくたって日常生活に全く支障はなく、だからこそ、40歳を前にするまで自分はその場所に足を踏み入れたことが無ければ、行こうと思った事もありませんでした。
でも、その住所番地がどんなところなのか、運転免許を取得した頃から密かに気になっていました。
気になっているけれど、かといって実行に移す程の関心もない。結構あると思います。

去年、10年ぶりくらいに写真展に出すために自分で写真を撮ることになり、ぼくは、かねてから気になっていた自分の本籍地を訪ねて写真を撮ってみました。池袋の北口から出て、川越街道を越えた一帯が目的のエリアで、電柱に書いてある番地を確認しながら徐々に目的地を絞り込んでいきます。明治通りや川越街道は時々車で走っているけれど、歩いたのは多分初めてです。薄暗くて排気ガス臭い首都高速の高架を抜けると、ごみごみした池袋の繁華街は終わり、静かな住宅地に変わります。池袋と言っても駅から10分も歩けば、古びたモルタルのすすけた肌触りが妙に懐かしい静かな住宅地で、ところどころ空き地があったりして雑草がのび放題だったり、良くわからないがらくたが捨てられていたり、舗装されていない私道を発見したり。改めて歩いてみると都心にも時々はこういう用途不明の空間があったりすることに感動すら覚えます。

 ぼくの本籍地は、小さな神社でした。一方通行の道から、50メートル程奥まった行き止まりで、袋小路の両脇は中華屋とスナックと美容院とクリーニング屋で、どれもかなり古びててその先に、小さな鳥居がありました。神社の周りは木造の住宅が密集していまして、本籍地は番地までしかないため、とにかくこの辺りということが分かりました。本籍地は基本的にどこにしても良いらしいので、例えば甲子園球場を本籍地としている人もいるらしいのですが、篠原家の場合神社という絶対に引っ越さない場所に置くことで、我が家の出自をそれで表したかったんでしょうか。そのこと自体にはさほどの感動も無いけれど、初めて足を踏み入れた北池袋周辺の雰囲気は相当面白い景色でした。なぜ今まで一度もこの方角へ足を運んだ事がなかったのか。何しろ関心が無かったのだから、反省も後悔もないのですが、自分の内側がじわじわと拡張していくような不思議な経験でした。

カメラという道具は、自分の無関心なものに関心を寄せることが出来る大変ユニークな装置だと思っています。今回のぼくの行動にしても、写真を撮る、という動機が無ければ多分足を向ける事など無かったかもしれないと思います。
写真は撮る対象がないと何も写りません。どこかへ行くとか、誰かに会うとか。単にこういうものが撮りたいと、思っているだけでは何も写らない。レンズを向けシャッターを押すという行為は、その全てに一瞬であっても、何かに関心を寄せることを繰り返しているのです。
カメラを持っていると、普段なら立ち止まったりしないような場所でもあえて足を止めてみたりします。今歩いてきた道を振り返ってみたりもします。花を撮る前にいろいろな角度から観察したりします。何となく知っている程度のもの、あるいは知ったつもりでいるものが、写真を撮ることで被写体に新たな発見をすることができます。実はこうだったのか、という風に。

カメラを持っているからといって、何かを表現しようと力むのは基本的に創作活動の方向性が間違っていると思います。対象を技巧手法でねじ伏せるようにするのは表現していることではありません。むしろ撮りたい対象に思いを寄せる行為こそが表現じゃないかと思います。思いがあるからレンズを向け、思いがあるからそこにある種の工夫が生まれ、一枚のプリントが完成していく。無関心なことに関心を寄せるとは、少々おかしな言い回しですが、それによって本当の自分の興味の質に気づくことが出来るのです。今まで気にも留めなかったようなことに、愛着の気持ちを抱くものが現れたとき、それは生涯をかけて取り組める作品のテーマに繋がると思います。

地下鉄副都心線の池袋駅は、他のターミナルよりも大きく北西の方向にそれた地下にあります。地上に出てすぐのところに、現代的なビルに挟まれるように古ぼけた立ち食い蕎麦屋を見つけました。上に載せる天ぷらの種の種類がとんでもなく多い。早速入って食べてみましたが、味も中々のものです。近頃は立ち食いそば屋ですら、チェーン店だらけの均質化した味覚都市、東京において、貴重な存在でした。もし自分が写真を撮る人間ならば、これこそ愛着の眼差しとなり、ここから創造の芽が生まれてもおかしくはないぞ、とそばを啜りながら考えていました。
新宿へ帰る電車に揺られながら、その日の出来事を振り返るのは、ささやかながらも充実した気分でした。