はっさくを食べた後ヴァイオリンを弾いてごらん

第6期(2012年12月-2013年1月)

私と弟が子どもの頃受けた音楽教育(ピアノ・ヴァイオリン)で学んだことは以下です。

1.夏みかん・はっさくを食べた後でヴァイオリンを弾くと歯が浮いていてもたってもいられないほど気持ち悪い。なるべく松ヤニを弓にたっぷり塗るが、それでも気持ち悪い。

2.ピアノを弾きながら読書する方法

3.ブラウン管テレビをつけたあと画面の表面の静電気で今まで見ていたことがばれるが、静電気を手でさーっととれば、ばれない

1は書いた通りです。試してみてください。

2ですが私は幼い頃から読書が大変好きでした。小学校四年生までには家にある父母の蔵書のうち小説と随筆に関しては全部読み尽くし、読み尽くすと一回読んだ本は何回も何回も読み返していました。普通なら親は喜ぶのかもしれませんが、親が黙っていれば食卓で食事中に茶碗の脇に文庫本をおいたふりをして時々ページをまくるなど、TPOを構わずにこっそり読書しようとするのでよく叱られていました。親戚などに「ウニコちゃんはいつも本を読んでいて偉いわね」といわれても、その「偉い」というのがピンと来ませんでした。
ピアノの練習は最低でも1日1時間しなさいと言われていましたが、私はその1時間が苦痛だったのと、読書をする時間が惜しかったので、自分の座っているピアノの椅子の右脇にもう一つ椅子を置き、その上に本を置き、靴下を脱ぎ、ピアノを弾きながら、体を右側にねじまげ、右足をあげ、足指でページを繰って読書していました。
音さえきこえていれば、母も父もやってこないので、こうやってかなり読み進むことができたわけです。ページを繰るペースが余り早くなくてすむように、私はなるべく文字がぎっちりと詰まった本が好きでした。

昔から私はショパンよりもバッハが好きだったのには、これも関係していると思います。ショパンでは右足をあげて本のページを繰って読書しながらでは弾くのが難しいからです。バッハではそれが可能です。

3について。母はそのころ地元のカルチャーセンターで英語を教えていました。家に帰ると母はおらず、母が帰ってくるまでに弟と私は、ヴァイオリン(私は弟の気をそいでしまうということですぐやめることになりましたが)とピアノの練習をすることになっていました。すると私と弟は目配せをし、練習をさぼり、テレビをつけました(うちでは子どもがテレビを勝手につけることは禁止でした)。そうやってアニメやウルトラマンの類をむさぼるように見たのでした。

母の車が帰ってくる音とガレージの音がきこえると二人であわててテレビを消します。
このときに、画面に静電気が漂っているので、手をかざしてパチパチと言わせながらその静電気をとるわけです。一通りなでるともうパチパチ言わなくなります。

そして弟はバイオリンを出したまま私はピアノの楽譜を広げたまま、今練習をやめて母を迎えに出た様な顔をして玄関に向かうわけです。親の心子知らずとはこういうことを言うのでしょうか。

でも私はピアノが嫌いでした。読書しながら弾けるバッハ以外は全部。
私がピアノをやめたのは確か13歳の時だったと思います。

先生は何人もかわったのですが、私が言われるのはいつも同じことでした。
どの先生もおっしゃったのでもちろん先生方が正しいのだと思います。

感情を込めないで機会のように弾いている、体の動かし方が足りない、ピアノというのは全身で弾くものだ。

手首をつかんで柔らかい動きを教えようとした先生もいらっしゃれば、私の両肩をもってピアノを弾かせながら揺り動かした先生もいらっしゃいました…。

最後の先生には鬱屈した雰囲気がなく、どこか話しやすかったので思い切って、ショパンが嫌いだ!ドビュッシーも嫌いだ! ロマン派以降の音楽が嫌いだ!といってみました。すると先生は「確かにあなたにはバッハが向いている」と笑ってバッハばかり弾かせてくれました。残りの時間はご自分がショパンを弾いてくださいました。私はショパンやドビュッシーを弾くのが嫌いでもこうやってきくのは好きでした。
こうして、途中では激しいドラマもあった(ここでは割愛していますが)私の子ども時代のピアノの体験も、最後は幸せに終わりました。

それから何十年たったでしょうか。私はある日、電子ピアノを購入し、ぽつぽつと昔やっていたクラシックの曲を弾き始め、その後しばらくマルセイユのロックバンドでキーボードをしたのち、子ども時代の憧れだったクラヴサンに邂逅しました。

そしてしばらく模索に苦労したあげく素晴らしい先生につくこともできたのですが、ここで驚いたのは、子ども時代のピアノでは体験したことのないような彼女の非常に理論的・技術的な教授法です。

私はフランスでピアノの先生についたことはないので、これはバロック音楽/クラヴサンだからそうなのか、彼女だからそうなのか知りませんが、彼女は「もっと感情をこめて!」「もっとやさしく」「ここは流れるように」「体ごと弾きなさい」「ここはもっとゆっくりでしょ」などといった抽象的なことをこの先生は言いませんし、「こういうふうに」と弾くだけで例を示すようなこともしません。

たとえば「ここは感情をたっぷりこめるところだからテンポを落としてゆっくり」ではなく、「ここはV→Iのcadance parfaite(日本語では「完全終止」?)だからテンポを落としてゆっくり」といった具合です。

また、先生は私が弾くのを一度きいて、首をかしげ、そして「この運指でやってごらんなさい」と鉛筆でさらさらと譜面に運指を書き直します。一見するとピアノでは考えられないような無理ある運指であることもありますが、その通りに弾くとあら不思議。無理のある運指の箇所は、要するにそこで滑らかに弾くことを許さず分節(articulation)を強いるので、クラヴサン的・バロック的には非常にメリハリのきいた魅力的な演奏に変身するのです。(前に書いた通り、クラヴサンにはピアノと違って音の強弱はないため、ある箇所を印象づけるには、その音の前で微妙に一呼吸おくarticulationでメリハリをつけます)。

非常に細かく入る注意や指示が全てそういった理論的・技術的なもので、「感情」「心」「印象」で話が片づけられることが一切ないというのは、ココロが木石のような私には大変わかりやすくて安心できるレッスンなのです。

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