記憶魚のひれ

第9期(2013年6月-7月)


 一番の深夜というものがあるなら、きっと、この時間のこと。エレベーターは、扉を閉めると音を立てなくなった。照明は落ちていて、私は青ざめた色の廊下を歩いていく。
 マンションのドアを後ろ手に閉めると、誰もいない部屋が、暗い青で満たされてそこにある。───この光は、月の横顔でもあるんだろうかね───返事はなく、出窓から月光が流れ込んでいる。水のように。
 水のようだ。水のように、青暗い光でいっぱいの水槽の中で、デジタル時計の秒が点滅している。どこか、とても遠いところで発せられた電波を、今ここに受信する機器が、小さな数字を回している。

 足元へカバンを置く時、こんな青く暗い水槽の中を、記憶が、魚のように尾ひれをひらひらさせながら、キッチンへ向かって泳ぎ出すのを見た。記憶はゆらゆら、尾ひれのように、こうして時々泳ぐんですよ。
 私は、記憶の魚が行ったキッチンの方へ、歩みを進めた。
 しかしあれはどうしたって、尾ひれの方しか見えないのだ。
 ひら、ひらりと見える尾ひれについて、キッチンからダイニングへ。
 暗くて青いダイニングへ進み、椅子をひとつ引き、私が腰掛けると記憶魚のひれは、水槽のような室内ですぐ翻って、今度は玄関へ向かって進んでいく。
 あれはもう、どうしたって、尾ひれの方しか見えない。

 電灯のスイッチを入れると、思い出ごと急排水されて、室内は空っぽになった。
 私がひとりで座っている。テーブルの上には、今朝しまい忘れたジャムの瓶がそのままになっている。
 顔を上げると、開けたままのカーテンの向こうに、夜の中腹で光をともすいくつかの窓が、遠い惑星のようにみえた。