星の存在

第10期(2013年8月-9月)

chichi

いっしょに死にむかおうと、
いっしょに生きていこうと、
そう思っていた。





はじめてちゃんと気がついたのは、9つの、家族でいったスキー場からの帰り道、車の中でだった。
すべてに等しくおとずれる終わりというものが、今こうしている間にも襲いかかっていて、
「今」は本当に「今」、この瞬間瞬間でしかなく、やがてその瞬間も、なにもかもがなくなってしまうということ、
車のなかにいる家族もいずれは離れ、誰かからいなくなり、「しあわせ」はなくなってしまうということ、に。
そして、それから、全てにおいて、区切られる終点が、なんこもなんこもちらばってみえた。
自分に対しても、時間に対しても、他人に対しても、物事にたいしても。

けれど、それでも、家族は絶対のポジションにあり続けていた。
血の繋がりにしか、永遠をみられない。
それ以外は、「それ以外」だった。
「何があっても」「絶対」そういう言葉が本当にあてはめてもいいとおもえるもの。
無条件が本当はそうではないと気づいても、そうありつづけようと互いに思っていることに確信を抱けるもの。

だから、その絶対を揺るがさないようにしていたのに、
あたしは自分から家を出てしまった。
死に目に会えないようなことはしたくなかった。
離れるほど価値のあるものだとも思ってはいなかった。
なのに。

なのに、なのに、なのに。今、あたしはひとり東京で生きている。
ときたまの電話やメールで、存在を知るだけで、生きていけるようになっている。
さみしい、と泣けばすっきりしてしまえるような、そんなあたしになっている。
じぶん自身をいちばんにもってきても、平気な顔ができてしまう。

もう星のような存在になってしまったのかもしれない、と思った。
遠くで見守っていて、と、そんな都合のいい空想を当てはめても大丈夫なほどに。
こうしていろんなことが大丈夫になってしまうのかもしれない。
ひとりでねるのも、ひとりででかけるのも、ひとりでくらすのも。
悲しくてたまらない。

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猫がすきな父は今年51になる。母もである。
滅多に帰れなくなってしまったあたしに、父が出張ついでとこっちに来てはよく飲みに誘ってくれるようになった。
けれど、あと何度会えるだろう。
なんど家に帰れるのだろう。
1年に1度帰れたとして、会えたとして、あと、何回。
時間は限られているのだとあらためて思い知らされる。

あたしを「あたしたち」で数えてたころは終わってしまったのかもしれないけれど、
まだ、永遠をみてはいる。
父には「文男」さんとしての人格もあり、また同じく母にも、弟にもあることを知ってなお、
絶対の存在だとおもっている。
どうか長生きをしてほしい。幸せでいてほしい。愛している。
あたしにとっての永遠は、ずっとあなたたちだけなのだから。