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2F/当番ノート

痛みとともにある、恩寵へ

当番ノート 第23期

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東京に暮らしていた頃の僕は人間というものをやめたくなっていた。それは何度もあった。人間をやめるというのはどういうことなのか、それもうまく説明することはできないのだけど、それは死ぬこととはちがう。死ぬことは死ぬことであるにすぎないから、それは人間をやめることとはちがうような気がする。僕は何度も人間をやめたくなった。それは、還りたいという言葉には親しい感情のようなものだったといまの僕は記憶している。僕は還りたいと願っていた。どこへ還りたいのかはわからなかった。

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ビジネスマンだった頃の僕は三鷹に住んでいて、中野坂上にある会社に通っていた。僕は中野坂上の空が嫌いだった。昼の休憩時間には外に出て弁当を食いながら、高層ビルの間に狭くちいさく切り取られた空を見つめていた。その空はかつての僕が知っていたほんとうの空とはちがう空のように思えた。そのちいさな空を見つめながら、どこか見知らぬ土地の、見知らぬ空を夢見ていた。このちいさな空も、どこかの空とつながっているのだということ。窮屈なスーツにからだを押し込めて深く息をすることもできぬまま僕はその空を見つめて、ある歌をよく聴いていた。
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いつだって ぼくらは
きゅうくつが 苦手みたいで
広い空が
見える場所へ出たくなるの
いつからか ぼくらは
複雑なもの 見すぎて
黒いお目眼が
日に日に悪くなっちゃうの
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三鷹の街に暮らしていた僕は、仕事を終えて家に帰宅するやいなや、毎晩のように井の頭公園に出かけてギターを弾いてうたっていた。あそこには木や草や鳥や虫がいた。だからあそこへ出かけていた。そして、あの頃の僕と同じように、木や草や鳥や虫や、それらのいる昼や夜に憩うようにして、見知らぬ人々がいた。僕は人の前でうたうことはしていなかったけれど、誰かのいる公園でうたうことは気にならなかった。人間の前ではなく、人間の間でうたうこと。それはまた、人間以外のものたちとも共有された場所で誰のためという目的もなくただうたうということだったから、僕は井の頭公園でよくうたっていた。それは僕にとっての自然のひとつのかたちだった。いろんなひとが聴いてくれた。カップルやおじさんや女の子や家族連れ、いろいろな人々がなんとはなしに僕の座っているベンチのそばに集まってきてうたを聴いては帰っていった。ときどき、話をしたりもした。何年も続けていたから、井の頭公園でだけでも、数百人の人と話をしたように思う。それは心地のいい時間だった。だれかに強制されたものではなかった。たまたまそこで出逢い、たまたまうたや音を通して親しくなり、たまたまそこで一度きりの会話を交わす。人と人との間にいることのささやかなよろこびのようなものを胸に携えて、僕は毎夜帰路についた。

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窮屈なスーツを脱ぎ捨てる日は突然やってきたが、それは僕には特に驚くようなことでもなく、ただそうなのだという静かで確かな感触だけがそこにはあった。サラリーマンと呼ばれる僕をあの日やめた。それは僕にとって、すごく自然な流れのなかでそう決まったことだった。意思とか呼ばれるものではないなと思った。それは決まっているのだから、僕の意思は関係がない。それはでも、意志ではあるなとは思った。聴こえない声が聴こえる。無意識の声に耳を傾けた。僕は僕を聴いた。あの日、僕は、すでに壊れてしまっていた。精神障害者とよばれるものになっていた。からだもこころもすべてが激痛だった。だから僕はビジネスマンであることをやめた。痛みに勝るような理由はなかったのかもしれない。

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それからというもの、不思議な縁のようなものが僕にいくつも現れるようになった。見えない糸でつながっていくかのように、東京でひとりきりだった僕の前に、その時、そして、それから現在に至るまで、僕の名前を呼び寄せてくれる親しい人たちとの出逢いが生まれていった。

高円寺のカフェギャラリーmomomoという店とそこの店主ゆりさんとの出逢いも、そうした見えない糸のうちのいまなお途切れることのない大切なものであるといまの僕は感じている。その場所は、人間の前でうたうことをやめた21歳の僕が、もういちど人間の前でうたうことに導かれた場所だった。その日は、momomoの開店1周年記念の「ももも文化祭」だった。

僕はその数日前にmomomoをはじめて訪ねた。ささやかな偶然の糸がゆりさんと僕を出逢わせてくれた。そして僕はゆりさんの場所であるmomomoを訪ね、ゆりさんは僕に「今度、ももも文化祭をやるから、そこでうたってほしい」と笑顔で言ってくれたのだった。その時、彼女はまだ僕のうたも音も聴いたことはなかった。数分の会話ののち、彼女は突如その提案を口にして、僕はすこし驚きつつも「もももとモモで、なんだかいいですね」と言って、ももも文化祭でうたをうたうことに決めた。人間の前に出て行くことに、不思議と抵抗はなかった。この場所なら、自然にうたうことができる、そう感じていたのかもしれない。見えない糸に導かれるように僕はあの日、ももも文化祭のライブのトリを務めて店のカウンターのなかで多くの人々に囲まれてうたをうたった。久しぶりに人間の前でうたうのはとても緊張した。けれど、とても、とても、たのしかった。なぜだろう、いま思い出しても理由はわからないけれど、21歳の僕が人間の前でうたったときに遠くへと消えてしまったうたは、26歳の僕がもももという場所でうたうときには、しっかりと、見えない糸で繋ぎとめられているかのように僕とともにいた。だからうたうことができた。そして、それ以来、僕は人間の前でうたうことができるようになった。ももも文化祭を通して多くの作家の方々とも知り合った。歌い手として、志田大造くんや記憶のソーダの二人とも出逢った。みな、好きな人たちばかりで、僕は東京という場所で、多くの親しい友に出逢うことができた。それがもももという場所だった。

それから1年後。
いま僕は東京にいる。高円寺でこの文章を書いている。いま僕が東京にいるのは、もももの2周年記念「第二回 ももも文化祭」に参加するために岐阜の山から東京にやってきたからだ。あれから一年が経った。変わったこともたくさんあった。新たに知ったこと、学んだこと、捨てたこと、拾い集めたこと、数え切れないほどの変化と流転のなかにいまも僕は生きていて、その流れはとどまることを知らない。河の流れのように。でも、変わらないものもある。もももという場所は、あの日と変わることなく、僕を迎え入れてくれた。1年前のあの日よりも、より親密に。そして、そこには彼らがいた。東京の地に暮らす、僕の友達。彼らが笑っていた。僕も笑っていた。ゆりさんも笑っていた。みいんな、笑っていた。僕は岐阜で、笑っていただろうか。そんなことをふといま考えている。

人間であることをやめてしまいたかったかつての僕は、人間であることをやめるためにうたをうたっていた。それは同時に、僕が僕のかたちをうたのなかに消し去り、ひかりの粒子のなかに還ること、それは、僕が消えることであり、僕自身になることでもある。

おととい観た映画「あえかなる部屋 内藤礼と、光たち」のなかで、内藤礼さんが言っていた言葉をふと思い出す。

「「自分がいる」という実感を持ちたいということと、「自分がいる」ということを忘れるということは、ほとんど同じようにある。作っているときは、まさに「自分がいる」ということを忘れるための行為。お祈りみたいなもの」内藤礼

僕はうたうことで祈りを捧げていた。誰に対して? わからない。ただ、祈りは祈りとしてそこにあった。そして、祈りは、同時に、僕が僕であることのうちに染みついていた呪いでもあり、うたうことは、呪いと祈りをともに生きることでもあった。それはいまなお、そうでもあるのかもしれない。そしてそこには、重力と恩寵がある。かつてシモーヌ・ヴェイユが書いたような力と慈悲が、僕にとってのうたにはともにある。だからいまもうたっているのかもしれない。深く息をするために。

僕はたぶん、東京という場所が心から好きで同時に心から嫌いだ。それらもまた同時にある。東京という呪いと祈りがある。それは僕にとってとても重要なことであることをいま東京にいながら、確かめている。東京にいるとからだが痛くなる。これを神経症と呼ぶこともできる。でも、そういうことではないのかもしれないといまは思う。東京は、痛いのだ。それは、東京という場所に、ほんとうに多くの人間が生きていて、ほんとうに多くの建物が建っていて、ほんとうに多くの生活や営みがあって、それらが分かたれるようにして立ち並ぶ都市という場所に、直線で区切られたちいさな空が浮かんでいるからだと思う。おのおのに分かたれた者たちが、おのおのに分かたれた部屋のなかで、おのおのに分かたれた空を見つめている場所、東京。空は狭くちいさく区切られて、痛みを感じているだろうか。

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それでもなお、そこにはひとつの希望のようなものをいまの僕は感じることができる。かつての僕は東京の痛みから逃げるようにして故郷の岐阜の山へと帰った。そして、己の本来の場所へ還ることができた。それをいま確かに感じている。石や木や草や鳥たちがそこにはいる。僕は岐阜の地で、彼らとともに生きている。そしてそこには、人間の地にはない静寂と沈黙がある。いまの僕はまだ、その静寂と沈黙を求めている。それが必要なのだと、からだの痛みが教えてくれる。人間から離れた場所で、人と人との間から抜け出した場所で、僕はひとりになり、僕はひとりであれる。それはひとつの幸福でもあり、人間のいない軽やかなひかりの恩寵でもある。

しかし、そこで僕は、あまり笑いはしない。泣くこともない。嬉しくなることも哀しくなることもない。ただ、在る。それが岐阜にいる僕のすがた。東京にいまいることで、それを知った。ここには、それとは違う幸福のかたちがある。人と人との間にいることで、岐阜にいるひとつの生き物である僕という人間は、人と人との間にあるこの東京という場所で、人間としての痛みと幸福を感じている。喜びも哀しみも怒りも寂しさも、人間のあいだにあるのだということをいま僕は思い出している。それは昔から知っていたことで、そしてこれから先も知っていくことでもあるのだろうと思う。

吉祥寺の路上、サンロード。太陽の道と冠された商店街に座り込んで、絵描きの我楽夢さんと朝まで描いたりうたったり話したりした。路上はかつての僕の場所。そしてそこはまたいまでも僕の場所。多くの人間たちと建築物に囲まれて僕たちは笑う。ここは東京。いまも昔もこれからも。

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もうすぐ朝がくる。うちに帰ろう。またいつか、会えるだろうか。あなたに。このかたちで。この人間で。それはいつか終わってしまうらしい。けれど、終わってしまうこのかたちだからこそ、人間であることは愛おしいのだといまは思える。そこには痛みもある。人間のかたちを保つための内なる重力、そして、恩寵がある。人間が人間であるために、僕はこれからなにをしていくのだろうか。まだわからない。スーパームーンの夜のことを話しながら我楽夢さんが描いてくれた絵をいま見つめている。

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”地上に存在していることは、それ自体で、祝福であるのか”

内藤礼さんの問いをいまいちど思い出す。

根の国に暮らす岐阜の僕は、青い部屋を眺めている。東京には青い部屋はない。けれど、ここには、人と人との間にしか生まれることのない部屋がある。その部屋の色は何色だろう。それはたぶん、その場所を分かち合う人間によって異なる色のある部屋であり、そこには、おのおのに異なるうたを生きる人間たちの、音と声が、一度たりとも同じものではなく生まれては共鳴する場所がある。僕は、だから、この場所が好きだ。たとえ、涙が出そうなほどに痛くても。辛くても。痛みとともにある恩寵へ。人間たちとともに生きることは、人間であるということのひとつのひかりのかたちであるのだと、この地上という場所にあることを、いまの僕は、祝福であると、そう呼びたいと思っている。

百瀬 雄太

百瀬 雄太

自己紹介は第一回目の記事にすこしだけ書きました。

Reviewed by
淺野 彩香


「生きていること、それ自体、祝福か」内藤礼

生きていることを安易に肯定しようとする試み。
それは自己肯定感や生への充足感のなさの裏返しとも見える。

自分がなぜ存在しているのか。当人なりの意味づけはいくらでもできるし、するのが人間だ。だから、「生きていること」が「祝福だ」「感謝すべきだ」という個人の見解はいい。

しかし、他者の気持ちや感受性を受け止めようとせずに、標語の如く、「生きていることは祝福だ」と押し付けるのは排斥である。人間が人間として生きている限り、創造主ではないのだから、なぜ生まれたのかの真意は人間である限り、結局のところ、その真理はわからないのではあるまいか。

今回のエッセイ、内藤礼の言葉には自戒を持って、存在ということについて改めて考えさせられた。

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