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2F/当番ノート

空の青さをみつめていると

当番ノート 第23期

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空の青さをみつめていると、ふと思い出すことがある。そこには11歳の僕がいる。彼はマーチという車の後部座席にいる。その車の車体は黄金虫のような金色のメッキで塗装されている。彼は母親の運転するその車の後部座席に横たわっている。彼の眼はなにを見ているのか。あるいは、なにも見ていないのか。車の後部座席の四角い窓越しに青い空を見るともなく見ているのが彼の目だ。二つの虚ろな眼球がある。空は怖ろしいほどに青く晴れわたっていた。

0歳の僕は、東京都小平市にあるちいさな街に生まれた。そこで少年時代を過ごした。0歳の僕が11歳になったとき、彼はその街を離れることになった。彼の両親が離婚することになったからだ。その事実に彼は反対も賛成もしなかった。ただありのままにその事実を受けとめた。とくにかなしくはなかった。さみしくもなかった。今の僕はそう記憶している。

彼は小学校の友達や幼なじみの子たちにさよならのあいさつをしないままその街を去った。さよならを言うのはいやだった。さよならを言ってしまうとすべてが終わってしまうようでこわかったのかもしれない。みずからの手でその街の日々を終わらせてしまうくらいなら、すべてをそのままに置き去りにして、いつかみんなが僕のことを静かに忘れてくれたらそれでいいと彼は思ったのかもしれない。さよならは父親とだけで十分だった。セミがよく鳴く暑い夏だった。彼は母親と弟と共に岐阜へ向かった。静かに燃える焰のような夏だった。

車の後部座席に横たわって空を見つめている彼はその空のなかで知った。人間はおのおのにばらばらでおのおのはただ独りなのだということを。たとえ家族であったとしても、人は独りだ。家族はこんなにも簡単にばらばらになってしまうし、父親は子どもたちを愛してはいなかったし、僕は僕でしかない。この地球のうえに僕はひとりだ。彼はそう気づいた。それは彼にとって、かなしいことではなかった。ただ、そうなのだということがわかった。

車の後部座席に横たわって空を見つめている彼も、27歳の僕のなかに静かに横たわっている。けれど最近はあまり彼の姿を見ない。彼はいまどこに横たわり、なにを見つめているのだろうか。

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詩のようなものを書いていた頃、僕は19歳になっていた。19歳の僕は、空の青さを睨みつけては道路に唾を吐いていた。空の青さを見つめていると、彼の心に巣食う得体の知れないぶよぶよとした黒い闇の塊のようなものが憎悪の焰を黒々と燃やした。晴れわたる快晴の空。突き抜ける閃光のような無限の青。「おまえはなんでそんなに晴れていやがるんだ?」19歳の彼は空を問い詰めていた。19歳。僕に空はなかった。黒い太陽だけが燃えていた。

先日、27歳の僕は、Twitterにこんなことを書いていた。
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目を覚ますといつも 独り暮らしの僕の部屋 黒い宇宙のまんなかに ぽっかりと浮いていた その部屋のまんなかで 胸のまんなかにあいたその孤独のまんなかで 怖ろしくて哀しくて目から体液を垂れ流し 紙に黒々言葉を書き殴っては それを土に埋めていた 昔の話
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19歳の僕は毎日のようにわけもなく涙を流していた。理由はなかった。流れ出るものを止めるすべが彼にはなかった。そして彼がそれに抗うためには、真っ白い紙の白色を塗りつぶしてしまうほどに、黒いボールペンで言葉を書き殴ることが必要だった。余白を埋めつくす黒い文字はまるで闇そのものの形にも見えた。数千の詩のようなものを書いた。そして彼はそのほとんどをだれに見せることなく土に埋めた。それは見せるための詩と呼ばれるものではなく、ただそこに書き殴られるためにある言葉だった。そして彼は同時に祈りもしていたのだろう。土に言葉を埋めることがなにを意味するのか、彼は知らなかったがそれをしていた。黒々と塗りつぶされたかつての白い紙が、土の中で、その暗闇のなかで、芽をだすことを祈ったのかもしれない。ひかりとなれ。そう願ったのかもしれない。

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彼はそれ以来詩のようなものを書くのをやめた。そして、彼は代わりにギターを手に歌を歌いはじめた。ギターをはじめて弾いたのは高校生のときだった。けれど特にのめり込みはしなかった。大学に入学してどうして軽音楽サークルに入ったのかは忘れた。理由はなかったのかもしれない。ただ、ギターを弾きはじめるずっと昔から僕は歌をうたっていた。風呂場で湯船に浸かりながら、即興の歌を次から次へと歌って遊んでいたことをなんとなく憶えている。歌うことに理由はなかった。ただ歌っていた。歌うことが好きだった。楽しかった。歌は無限にあふれだしてきた、僕の風呂場で。

言葉を書くことをやめた僕は歌をつくって歌ったが、それを人に聴かせるつもりはなかった。なぜ人に聴かせる必要があるのかわからなかった。人に聴かせるために歌っているわけではなかった。「せっかくいい歌なのに人に聴かせないともったいないよー」と言ってくる人の言葉を何度も聞いた。ありがたいが、僕には関係のないものだった。20歳、あるいは、その前後の僕にとって、歌うことは、人間をやめることだった。人間をやめると言っても、それは死ぬことじゃない。生きていることと死んでいることのあわいにある、その瞬間のなかに溶けだすためだけに歌をうたった。それ以外の理由はなかった。みんなの真似をして歌詞を紙に書くのもやめた。身体で歌うものを紙に書き、言葉として固める必要が彼にはなかった。それはいまの僕にもない。ただ、口にまかせて、身体にまかせて、その場かぎりの歌をうたえば言葉はそこに現れた。それが僕にとっての歌うことだと彼は知った。

詩のようなものを黒々と書き殴る少年は、おのれの内側に蠢く黒いぶよぶよとした塊を、歌うことで空へと吐き出していた。その行為のなかで少年は、かつて憎悪していた空への眼差しを取り戻していった。歌を歌い聴かせる相手はいつも空だった。青白いひかりが部屋に忍びこむ朝にはそのひかりに向けて朝の歌を。燃えるような夕暮れの太陽を見つめては夕暮れのように燃えさかる焰のような歌を捧げた。それをiphoneのボイスメモに録音して独りで聴いた。歌には、彼の求める言葉があった。それは彼に、その時々に必要な言葉を授けてくれた。およそ六年間、彼はそうして独りで歌をうたっていた。聴く人間は必要なかった。人間に聴かせるための歌は彼にはなかった。

21歳の僕の時間へ歩を進める。

彼はその時、音楽活動をしようと決めた。はじめて人間に向けて歌をうたおうと決めた。場所は下北沢のとあるカフェだった。大学の後輩のシンガーソングライターの女の子に誘われて、彼はそのライブに出演することにした。彼女はいまでは有名なシンガーソングライターになって、色々な場所で沢山の人々に迎えられながら歌をうたっている。

彼はその日、自分の歌を5曲うたった。そしてその日を境に、彼は人間の前で歌うことはやめた。彼の音楽活動は一夜にして終わった。なぜ彼は人間の前で歌うことをやめたのか。僕は思い出す。舞台の上にたち、シンガーソングライターとしての私が人間の前で歌をうたっていたら、目の前からみるみるうちに音楽が遠ざかって行くのが彼の目には見えた。ひとり、空にむけて歌をうたっていた彼の周りには、彼を包みこむように音楽が寄り添っていた。しかし、舞台の上で、人間の前で歌をうたうとき、うたは彼からするりと遠ざかり、煙のようにはるか彼方に消えていってしまった。どれだけ大きな声でうたっても、もうそこにはうたはいなかった。彼の声はうたに届かなかった。だから彼は人間の前で歌うことをやめることにした。うたを殺して遠ざけてしまうくらいならば人間の前で歌う必要など彼にはなかった。彼はその日を境に、また、空を見つめてひとりで歌いはじめた。

その時の彼は今の僕のなかにもいる。彼はいまでも空にむけて歌をうたう。彼の姿を見つめていると、その歌を聴いていると、かつて喪ったなにかを取り戻そうとしているようにも感じる。それはあの日の空なのかもしれない。11歳の僕がちらりとこちらを見る。そして彼はまた、車の窓越しに空を見つめる。

「人間は独りだ。」

11歳の彼は言う。

「人間はほんとうに独りなのか?」

21歳の彼は問う。

空がいる。誰かが言う。

27歳の僕はいまもひとりで歌っている。いまの僕は、岐阜の野山や空や河や樹や土や虫や鳥や、いろいろな生きているものと死んでいるものとともに歌っている。人間としてはやはりひとりだ。そしてこの地で僕は生活の上でもほぼひとりだ。けれど、もうひとりでなくなった。ほんとうにはひとりではないのだと、うたが教えてくれた。いまも忘れそうなときには彼がそっとそう教えてくれる。うたは、ずっと僕のなかに生きている。11歳の僕、21歳の僕、27歳の僕、変わりつつも変わらずにうたはあった。うたとはそういうものだと僕は思っている。歌で生きる、のではなく、うたを生きるのだ、と、いまの僕は日々それを確かめながら歩いている。

21歳の僕は毎日、生きる時間の余白を埋めるようにして音楽を聴き、生活を音で埋め立てていた。音楽がすべてだった。それは永遠の片想いの恋のような感情だった。

いま、僕はあまり音楽を聴かない。その必要がなくなった。形のある誰かの音楽を聴かなくても、音楽はいつも僕のまわりに生きていることを知ったからだ。あらゆるものがうたをうたっている。僕は晴れわたる空のした、背筋をのばしてあくびをしながら、今日もまた散歩にでかける。いまの僕は空が好きだ。心の底から好きだ。空はいつでもここにいる永遠の友だ。僕は彼と戯れ遊びながらうたをうたう。朝には朝のうたを。夜には夜のうたを。

空の青さを見つめていると、ふと思い出すことがある。かつての日々。うたとともに歩んできた道。彼が僕を生かしてきてくれたこと。突き抜ける閃光のような無限の青のなかへ、今日もうたとともに溶けだしてゆく。うたはいつでもはじまる。そして、うたに、おわりはない。

百瀬 雄太

百瀬 雄太

自己紹介は第一回目の記事にすこしだけ書きました。

Reviewed by
淺野 彩香


「空の青さを見つめていると、ふと思い出すことがある。かつての日々。うたとともに歩んできた道。彼が僕を生かしてきてくれたこと。突き抜ける閃光のような無限の青のなかへ、今日もうたとともに溶けだしてゆく。うたはいつでもはじまる。そして、うたに、おわりはない。」

百瀬さんの言葉には過去の記憶を剥すようなひりつく痛みと、
微風が体を包み込むときのような慈愛に満ちている。

忘れてしまいたかった過去、忘れてしまった記憶に対して、人は頓着をしない。
なるべく蓋を閉じて、触れ得ない地下に埋めてしまう。

彼はそれを掘り返してみつめ、それでも平生さを保っていられる静謐な視点があった。

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