ひとの距離

第12期(2013年12月-2014年1月)

電車に乗る生活が日常です。
とくに、満員のぎゅうぎゅうの電車、というわけではありません。
ところで、ぎゅうぎゅう、ということばはいいなあと思うのが、
犇めくという漢字が、ぎゅうが3つも使われていて、そのようすとそっくりだから、
いいなあと思います。
そんな風に、どこに行くにも電車に乗るのが常で、
毎日電車でどこかに行ってます。
電車なんてものがなくて、みんなが一様に歩くのが常であれば、
きっと電車がなくて不便だなあ、なんてことは思わないとは思います。
電車で40分かけたらどこそこまで行けるのだよ!歩いたらうん時間だよ!
などと言われたとしても、まあ、40分歩いて行ける場所だって
きっといい場所だろうなあとは思うのです。
だからといって、電車なんて嫌いだよぼく、ということも思わないので、
電車に乗って、仕事に行き、電車に乗って、ひとに会いに行き、
また電車に乗って、今いるアパートに戻ってきて、思うのですが、
先ほど述べたことですけれど、歩いたらうん時間かかるようなところに、
友だちが住んでいて、その友だちがそこにいるなあと、いうことがちゃんと分かるのも、
電車が40分でそこまで連れてってくれるからなのかなあと思いました。
もし、歩いてうん時間かかるようなところなのだったら、ほんとにそこに友だちがいるか、
ちょっと疑わしいような気もしてくるし、
そもそも歩いてうん時間かかるようなところには友だちなんて、はなからいないかもしれない。
アパート暮らしの単身者が増えて、都会ではみんな関係が分断されていて、
なんてことが言われたりするけれども、
ほんとのほんとはひとの距離というのは近くなっているはずなのですよね。

そのような時代で、ぼくは、ひとの門出を寂しがるひとがなんだか多いなあと、
昔から思っています。
なんて冷たいやつだ、と思われることもしばしばなんですが、
まあ聞いてください。
ぼくは、友の門出はほんとに祝福の気持ちで送り出したくて、
今いる場所からその友がいなくなったとしても、ぼくとその友との関係には、
ほどよい距離感が既に保たれているのだから、
からだの距離が離れてしまったとしても、今まで朝に顔を合わせていたのと同じように、
再び会ってもそのように顔を合わせられるんだと思っていて、
だから、ぼくは全然寂しくないんです、門出に関しては。
だって、この時代、ひとの距離は近くなっているんです。
会いたいときに、会いに行けるんですもの、それほど頼りがいのあることはないし、
それほど愉快なことはないです。
「友遠方より来る、また楽しからずや」
と、孔子も述べている。ぼくはこのことばがもう楽しさに溢れてて大好きです。
近くの友だちが大切なのはもちろんなのですけれど、
遠くの友だちだって同じように大切です。
近くにいないと関係がもうなくなっちゃうんじゃないのかしら、
という不安がたぶん寂しさになってしまうのだと思うのですけれど、
ぼくは遠くにいる友だちたちのことを思い出すと嬉しくてたまらなくなります。
そのように、ひとを想う、ということが、そのひとと会う、ということだと思うのです。

友だちのことを想い出す暇もない、というのはほんとうに辛いことです。
そのように生きざるを得ない
ということばをついてしまいそうな速度で生きることは
ぼくはいやだなあ。
どんな速度でもぼくは友だちのことを想い出すことができるようにいよう。
歩いて40分、電車で40分、友だちのことを想い出すことができるようにいよう。
だから明日も電車に乗って出かけるし、電車に乗ってアパートに戻り、
そんなことを思うのです。

今日でこのアパートメントを引き払います。
今よりもここからは少し遠くに行くことになりますけれども、
遠いところでぼくはまたそんなことを思ってぶつくさとしていると思います。
どうもお世話になりました。
鍵はポストに入れておきます。

でんしゃ