ラブレターのこと

第12期(2013年12月-2014年1月)

突然ですけれど、
ラブレターというものはほんとに存在するのですか?
もしかして、「そういうものがあるらしい」
という妖怪の類いではないでしょうか。
というのも、ぼくはラブレターを書いた記憶がないんです。
そして、悲しいかな、もらった記憶もないんです。
すみません、あげたのに!ってひとがいれば、謝ります、
ぼくは鈍感なので、すみません。
敏感に誤解してよく独りで落ち込んだりはしてます。

先日、あるひとが
「一晩寝かすと変わるもの、それはラブレターのことば」
ということを言っていました。
これがすごくこころに残っています。

手紙というのは、書いてるとき書き終わったとき、
封筒に入れる瞬間と、切手を貼る瞬間、
郵便局まで向かう途中、ポストに入れたとき、相手に届いた日、
と、じぶんの気持ちが現れてからことばになり
文字になり相手に届くまでのあいだ、
とても存在がふわふわしているような気がします。
とくに、じぶんの手元からはなれて、相手の手元に届くまでの、このあいだに、
じつはその手紙の意味がとても変わったものになっているかもしれません。

むかしむかし、電子メールはもちろん電話もないころ、
遠くはなれたひととやりとりするには、
手紙しかありませんでした。
そしてその中には、
相手のことを想い慕い、詠んだ詩もたくさんあります。
それを詠んだとき、
それは月がきれいな夜で、
その美しさからそのひとのことを思い出したのかもしれませんし、
とてもおいしいごはんを食べていて、
あああのひとと一緒に食べたいな、と思ったのかもしれませんし、
寒い夜に布団に入ってもなお寒くって、
さめざめと昔の慕情を思い出したりしたのかもしれません。
それを詠んだそのときに想っている相手のこと、
そしてそれがその相手に届いたときには、
詠んだそのときの気持ちとは
何かが少しだけ変わっているような気もします。
しかし、そのタイムラグがあることこそ、
届くまでのその時間すらも相手のことを想っているから、
より強い気持ちになってじぶんにも相手にも伝わるような気がします。
もしかしたら、瞬間的な気持ちの高まりを知ることよりも、
じんわりと確かに想い続けてくれている時間があったのだと感じることのほうが、
どきどきするくらいロマンチックなことなんじゃないかとも思うのです。

それに、たとえばラブレターがふたりを結んで、
結婚してずっと一緒にいておじいちゃんおばあちゃんになったころに、
ふと再び開かれたそのラブレターには、
きっとずっとあたたかみが残っているのだと思うんです。
そしたらたぶん、ずっと過ごしたその相手に再び、
ラブレターを書こうかな、って思うんじゃないでしょうか。
とてもいいなあ。そういうの。
だって、電子メールは消えちゃいますよ。ぜったいに。かんたんに。

じぶんが生きているこの時代は、
やっぱりいろんなことがせかせかとしています。
気持ちすらも、結果がすべてだと言われんばかりのスピード感で流れていきそうです。
そんな時代で、ぼくはラブレターを書いたことがない。

だから今度恋をしたら、ラブレターを書いてみようと思います。
便せんや封筒を選ぶときも、ことばを書いているときも、切手を貼るときも、
ポストに入れるときも、いつ届くのだろう思っているときも、
届いたその日も願わくばその日から先もずっと、
きっとその相手のことを想っているのでしょう。
想いというのは、
そういう時間を一緒に過ごしたいということなのかもしれません。
それはきっとすてきなことだと思うのです。

てがみねこ