くらしくらしくらしくらしくらし

第16期(2014年8月-10月)

こんなことをここに書くのはどうかなぁ、と自分で自分をなだめていたんだけど、最後だからいいか、と吹っきって書いてみようかと思う。ぼくは「くらし」を感じないものがとても苦手だ、というか嫌いだ(あまり苦手とか嫌いとかネガティブな言葉の話はしたくなかった)。

じゃ「くらし」ってなんだろう、と言えば、そこはとてもむつかしいことなのだけど、だれかの個性を抹殺したり、仕事ばかりの日々で心と時間を消費するだけだったり、そういうものに対してぼくは嫌だなぁ、と感じる。そこから逆に考えてみると、「自分らしく、なにかをつくる、生みだす」というのは、自分なりの「くらし」を説明するのに、わりと近い答えかもしれない。

東京という場所、いろんな人やもの、そして情報がうようよ、ひっきりなしに集まるこの場所は、ぼくはわりと好きだ。だけど、くらしを感じない瞬間もかなり多い。都会ならでは一面というか、傾向というか、それはぼくは苦手だ。というか嫌いだ。なにかを犠牲にして、すり減らすのが当たりまえの雰囲気、空気感、もしくは暗黙のルールに従わなくていけないのには拒絶反応がある。

そんな都会では、よく「新しいはたらき方」という、はたらき方の多様性について、いろんな話が飛びかっていて、その実践者や方法論が重宝されている。それはすごくいいことだと思う。だけども、なぜ「はたらき方」ばかりがフォーカスされるのだろう。「くらし方」というのはあまり聞かないよなぁ、とここ1年ずっと疑問に感じていた。

くらしに関しては、「島ぐらし」「田舎ぐらし」というような、超単純な分類ばかりされている気がする。都会か田舎か、というように極端過ぎというか。おなじ島でも田舎でも中身はよくみると違うしで、もっと細分化できるだろうに。そもそも「くらし」ってなんだ? という話があまりされないのって、それ自体がすこしさみしいことだ。くらしていることと、ただそこに住所をおいて住んでいることは、まったく別物だと思えるのだけど、そういう話はせず、曖昧模糊のまま、「はたらき方」へと目を背けている気がする。

くらしがまずあって、はたらき方があるはずなのになぁ、と。なんというか、はたらくことが土台にあって、くらしが設計されていくことのへの疑問。たしかに働かなきゃ、生きていけないの事実。ただ、くらしの一部として、仕事があるだろうし、少なくてもずっと昔はそうだったのだろう。いつからはたらくことが大前提になりはじめたのか。

と、(しつこいくらい、申し訳ないくらい)くらしくらしくらしくらしくらしと連呼しまくってるのは、これは大事なことだと思うから。ここで、くらし方にもっと細かいバリエショーンがあって、選択肢が増えたらいいよね、とそういう気持ちがぼくは強い。これまでアパートメントで書いてきたことを自分で読み直してみると、あらためてそうだ、と感じる。

自分のくらし方を一晩でごっそりと変えることはそうそうできない。それができる人って、才能なのか、性格なのか、ステータスなのか、そういった要因がえらく強い。こういうくらしがしたいなぁ、という描けた像がもしあるなら、そこめざして、ちょっとずつ変えていけばいいのではないか。くらしの一部をこつこつこつこついじってみる。

一部というのは、ご飯を食べる時間かもしれないし、通勤の時間かもしれないし、寝る前のちょっとした時間かもしれない。24時間あるうちの1時間でも15分でも1分でも、「自分らしく、なにかをつくる、生みだす」時間にあててみること。ぼくは、カクテルを飲むことや、カクテルがある場が、そういう、くらしに触れる時間(や会話)につながれるんじゃないかと思っている。だけど、その人なりにくらしに触れるなにかがあれば、なんでもいい。

くらしの一部がちょっぴり変われば、くらしの全体も変わってくる。ほんの一部のために、まず小さく動いてみること、あるいは、小さな動きをつくることが、じぶんの「くらしをつくる」ことなんだろうな。その微動というか、想いがどこかに垣間見れるものに、ぼくは「くらし」を感じてしまう。

つまりは、くらしがいちばん、だから、小さいことに目をむけたいよね、というごくごく当たりまえの、すっごくふわふわしたことを書きのこして、ぼくはアパートメントから退居させてもらいます。

(2ヶ月もの間、すこしでも、ひとつでも読んでくださったかた、ありがとうございました)

2014-09-20 18.44.53