anonymousとonymousを巡る8のエッセイ (3) 大友克洋『童夢』

第16期(2014年8月-10月)

photo 03
前回はBob Dylanの”Subterranean Homesick Blues”を取り上げました。そこで情報の断片を過度に集積させることが、その個々の意味性を崩壊させるという面白さがあること、その光景が『童夢』にも見られることを言いました。

この『童夢』は、何回読み返してもそのスピード感とスリル、そしてドラマに圧倒される大友克洋のマンガです。高度経済成長期を過ぎた頃の公営団地を舞台に、娘夫婦に引越されて一人暮らしとなった老人エスパーであるチョウさんが巻き起こす連続殺人事件が描かれています。
http://www.futabasha.co.jp/booksdb/book/bookview/4-575-93032-6.html

このチョウさんは、普段はボケ老人を装っていて、決して団地の中で目立つ存在ではありません。しかし皆の見ていないところでは、羽根つきの帽子や巡査のピストルなど、他人が持っていて自分が持っていないものを気ままにほしがり、エスパー能力を使って奪います。奪われた他人は、まるで取り憑かれたかのように自殺してしまいます。彼は、奪ったものの中でもお気に入りを身につけ、団地を飛び回って、次の他人を見つけに行きます。身につけないものは、自宅に溜め込みます。こうして、団地の人々の持ち物が、持ち主を失ってチョウさんのもとに集められていくのです。

まさかエスパーによる犯行とは思わず、捜査に行き詰まった刑事が、事件は悪霊や地縛霊のせいではないかと冗談半分で会話するシーンがあります。これは、半ば当たっていると言えるでしょう。娘夫婦に厄介払いされ、団地の住民からはボケ老人と言われているチョウさんは、表向きひっそりと暮らしており、社会的に存在しないも同然の状態です。それだけでなく、「ほしい」または「要らない」の論理でしか行動しない彼には、芯となる人物性が一切ありません。生きてきたことで培われるはずの文脈が無いのです。

ですので彼は、(”悪”や”地縛”と形容することは出来ませんが、)彼の人物性や文脈のなさと、今現在における社会的存在感の希薄性から、限りなく”霊”に近いinvisibleな存在であると言えるでしょう。彼の衣服は常に真っ白く描かれていますが、それはこのことの象徴であると思います。

このinvisibleな文脈上に、ほしいままに集めた膨大な物たちが集積され、その様子はわたしたちに強いグロテスクさを感じさせます。住居は半ばゴミ屋敷となっており、彼自身の居場所が無いくらいです。また、おもちゃの日本刀やてんとう虫のバッチ、羽根付き帽子といった寄せ集めの装飾品は彼に似合わず、着ている、というよりは、いびつに着られている状態です。これらのコレクションは終盤、証拠品として警察に押収されますが、見て回った高山刑事は「ほとんどが使いものにならないガラクタ」と表現しています。 つまり、個々の装飾品(=情報)が、意味を失くしているのです。

もしこれが単一の殺人事件であれば、話は違いました。なぜなら、ある一つの物だけを巡って事件が起きたなら、チョウさんと他人、そして物の間に、強固な関係性が発生するからです。今回は、事件と物があまりにも多く、わたしたちは、伊藤刑事の言うように「尋常じゃない」ことはわかりますが、高山刑事の感じる「何故」に答えることは出来ません。冒頭のモノローグにあるように「(羽根つきの)ボーシにジャイアンツのバッチなんかつけてん」のは「バカだから」としか言えないのです。

前回のDylanによれば、文脈を失った単語や事物といった情報は豊かな想像の入り口でした。ですが、ここで分かるのは、invisibleな文脈上に、過度に情報が集積されるとき、情報ひとつひとつの意味は破壊され、それはonymousの世界に慣れたわたしたちの知覚にとっては、時として非常にグロテスクたりうるということです。

こうした「過度な情報」と「老人」というモチーフから連想されるのが、今年の5月に行った独居老人スタイル展です。チョウさんと同じく社会との繋がりは切れているように見えますが、文脈の感じられないチョウさんとは対照的な、濃い人物性を見出せます。次回はこの点を取り上げたいと思います。