anonymousとonymousを巡る8のエッセイ (5) 農業少女

第16期(2014年8月-10月)

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もう4年前にもなりますが、2010年に野田秀樹の『農業少女』を池袋の芸術劇場で見ました。戯曲自体は古く、初演は2000年です。今年は2014年ですが、今読み返しても全く色あせていないと感じます。
http://www.nodamap.com/site/play/21

この戯曲は、片田舎の農家に生まれた15歳の少女である百子が、劇的な人生を夢見て上京したものの、失敗して田舎へと転落してしまう物語です。彼女は農業を嫌い、かといってやりたいこともないままに家出、上京します。何のツテも無い彼女は、道中で出会った女に引っかかり、AV会社社長の都罪の元でしばらくAV女優として生計を立てます。その後、都罪は福祉活動家に転身。百子は家出少女として暮らしながら福祉活動に勤しみます。その中で彼女は「食べると人の臭いが消えるお米」のアイデアを発案、都罪はその米を「農業少女」と命名、不登校の少女たちの手で作られるという感動ストーリーをつけて発表しました。世間は熱狂し、都罪は一躍、時の人となります。有名になったことで都罪は満足し、現場での面倒な米作りへの興味を失い、失敗したことにしようとしますが、百子はそれを「詐欺」と言って帰郷、いつか都罪が農業少女を本当に発売する日を待ちながら、故郷で米を作り始めます。しかし最終的に都罪が撃ち殺されると、百子の東京への希望は完全に途絶え、難聴になってしまいます。最も遠ざかりたかったはずの、近所で野菜を売るおばちゃんたちのように「ただ何かを待つだけの女」として農業に携わり、死ぬこともなく生き続けることを悟ります。

この話には救いがないのが辛いところです。お金がないと暮らしていけない以上、わたしたちは消費社会で生きるしかありません。すると、東京を頂点とした消費のヒエラルキーに順応するしかありません。百子の伯父は「時間の欲しかけん、農業以外のやりたかけん」と言ってこの構造から逃れようとしましたが、昼間にタクシー運転手として働く傍ら農家も営む人生が限界でした。一方で百子はヒエラルキーを上り詰めようとしましたが、大衆に認知され、消費したいと思われるアイコンにならねばなりませんでした。だから彼女は「エッチしたい」の象徴であるAV女優、「感動したい」の象徴であるボランティア、「感動したい」に加え「食べたい」の象徴である米(農業少女)と、都罪に促されるまま次々とアイコンを着替えることになったのです。しかし、大衆の「◯◯したい」という気まぐれには終わりがあり、百子は東京から遠くへと追いやられました。

前回の首くくりアクションは、他人に認知され得る、営為としてのonymousでした。今回は、消費の対象であるアイコンとしてのonymousが描かれているといえるでしょう。どちらも生きるためにはonymousであることが重要という点では同じですが、農業少女が悲劇的なのは、onymousからanonymousな存在へ、つまり近所のおばちゃんたちのように、名前で呼ばれない存在へと転落していくことです。こうして単なる生存ではなく、消費という側面から考えた時、anonymous/onymousは東京と田舎のヒエラルキーに引きずり込まれることが分かります。

農業少女のような、死ぬこともなく、ただ何かを待つだけのanonymousな状態で生き続ける、そんな人生に光を差し込ませた映画「ミリオンダラー・ホテル」を次回は取り上げたいと思います。