anonymousとonymousを巡る8のエッセイ (7) ウォーホル

第16期(2014年8月-10月)

ウォーホルはポップアートの先駆者といわれ、唯一無二のonymousな存在といえるでしょう。
http://www.huffingtonpost.jp/2014/03/12/andy-warhol-15minutes-eternal_n_4949423.html
「アンディ・ウォーホルの全てを知りたければ、絵や映画や僕の表面だけを見ればいい。そこに僕がいるから。隠されていることは何も無いよ。(”If you want to know all about Andy warhol, just look at the surface of my paintings and films and me and there I am . There’s nothing behind it.”)」という有名な言葉があります。
しかしわたしたちは実際の彼を知っているというよりはむしろ、印刷された彼の写真や、テレビや新聞などに載っている彼の言葉の引用など、彼のcopyを見ているにすぎません。まるで影踏みのように、「本当のウォーホル」にたどり着くのは難しいでしょう。なぜなら彼のポップアートとは、『2つのマリリン』に象徴されるように、どんなにonymousな存在であっても、反復・複製することで(自分自身ですら)消費対象としてのcopyにしてしまうからです。

こうして気付かされるのは、実はこの消費社会においては、onymousとanonymousの他に、消費される存在としてのcopyがあるということです。前々回の『農業少女』では退屈なanonymous的暮らしから抜け出そうとして抜け出せなかった少女、百子の悲哀が描かれていました。今回、ウォーホルについて思うのは、彼は百子が叶えられなかったonymousな存在になることをせっかく達成したのに、それを大衆に知らしめるためには、自己をcopyしてしまうしかないという、別種の悲しさがあるということです。

半年くらいまえにNHKのETV特集で、特殊メイクアップ・アーティストの辻一弘さんのアート・プロジェクトが紹介されていました。シリコンを使って実際の4倍のウォーホルの胸像を作るというものです。
http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2014/0412.html
辻さんのプロジェクトは、膨大な数のウォーホルの写真資料などから丹念に表層を作り込むことで、魂が反映された表層が出来上がる、という内容でした。具体的に作品のどこに反映されているかまでは、残念ながら番組では触れられていませんでしたが、作品を見に訪れたウォーホルの知人は、親しい人にしか見せない表情が現れていることを不思議がっていたので、copyではない、恐らくonymousな存在としてのウォーホルが表現されていたのでしょう。消費される、ただ「チラ見」されるだけのcopyとしてのウォーホルから、じっくり見られるonymousな存在としてのウォーホルへと、引き戻すことに成功したのかもしれません。

最終回は、onymousな存在をcopyすることで製品を生み出すウォーホルとは全く逆の、anonymousな製品である「民芸」について考えようと思います。