倉庫とパッケージ、5。

第21期(2015年6月-7月)

倉庫とパッケージ、5。

ポケットには東京タワー、の話。

忘れないように努めていることは、
やがては忘れてしまう事であり、
思い出さないようにしていることは、
何かの拍子に必ず思い出してしまう事である。

この二つの事柄は、
或いは別々の倉庫に同じ名前で保管されているか、同じ倉庫に別々のパッケージで保管されている。
つまり、
記憶というものは僕たちの意思や考えだけでは完全には管理できないもので、その類似性が記憶の引き出しの取っ手のような形をして時折、僕の人生にその重要そうな「何か」を問いかけて来るのだ。

アントワープの本屋で立ち読みをしながらバスが来るのを待っていた
26時35分
天気は雨で
石畳の隙間にはびっしりとダイヤモンドを敷き詰めた様に雨粒が礼儀正しく並んでいた
僕が窓の外を眺めていると店主が話しかけてきた

バスを待ってるのかい?
どうして分かるの?

僕は下手くそなフランス語で尋ねた

この時期にはよくいるんだよ、君みたいのが
僕みたいの?
その本を買ってくれたら、バスはすぐに来るよ

店主はそう言った

幾らなの?
そうだな、幾らなら持ってる?

僕はポケットを漁った
中には、東京タワーが入っていた

これじゃダメ?
そりゃ、貰いすぎだ。
良いよ、気にしないで、どうせこれしかないんだ

店主はやれやれといった調子で東京タワーを受け取ると、もう一冊、本を僕に手渡した

これは?
バスの運賃がいるだろう?これで払うといい

そしてバスが来た

お待たせしました
ねぇ、運転手さん、運賃はこれでいい?

運転手はしげしげと本を眺めやがてニッコリした
ああ、良いとも、欲しかった本だからね

バスはアントワープの空を飛んだ

何処へ行くんです?これ
ブリュッセルだよ
ブリュッセル?
ああ、あんたは何処へ?
分からないんだ、ただバスに乗りたくてね
人生にはそういう日が必ずあるもんだ
運転手さんは?いつからバスに?
いつもさ、いつもバスに乗ってる
素晴らしいね
そうとも言えない

満月が夜空に浮いていて
それは太陽を待っているようにも見えるし
追いかけているようにも見えた
僕は月の裏側を見たいと思った
あれ?雨はいつ止んだんだろう

月の裏側に行きたいんだろ?
どうして分かるの?
みんな、そう思うからだ
運転手さんはいったことがある?
ないよ、バスは万能じゃない
さっきの本、何だったの?
月の満ち欠けに関する学術誌だよ
満ち欠け?
ああ、世の中の奴らは、月の満ち欠けは太陽の反射だと思ってるが、そうじゃない、月は物理的に体積としてあの大きさになって、また元に戻ってるんだ
嘘だよ
いや、この本がそれを証明してる

バスは月まで手が届くほどの高さを飛んでいた

なるほど
ポケットに東京タワーが入ってるのも
月の満ち欠けが体積によるものなのも
どこかしら説得力がある
バスはブリュッセルの上空にさしかかる

降りるかい?

僕は首を横に降る

ミラノへ行きたいんだ
ミラノ?
うん、そこに友達が待ってる
そうかい、ミラノはステキな街だ
行ってくれる?
もちろんさ、本を貰ったからね

ブリュッセルで小さな女の子が乗車した
彼女は運転手に本を手渡した
運転手は小さな声で
こりゃ素晴らしい本だ、と言った
少女はガラガラの車内を見回すと僕の隣に座った

雨はね、月が出た時に止んだのよ
え?
雨が止んだから、月が出たんじゃなくて?
少女は笑った、ケラケラと高らかに笑った
そんな事、あるわけないわ、先ず月が出たの、そして雨が止んだのよ

だとしたら、雨が降る中、月は出ていたのだ

見たかったな、それ
見なかったの?
うん
そういう日もあるわ

そう言って彼女はポケットからドゥオモを出した

食べる?
食べれるの?
美味しいわ、これはフィレンツェ味
いや遠慮しておくよ、これからミラノに行くんだ
ステキね
君は?
私?私はウチに帰るの、私のウチに
ステキだね

そう言うと彼女は黙った

月光は沈黙を飲み込んでバスの中に幻想的な空間を創り出していた
見た事のある景色と見た事のない景色が目の前で混ざり合う、ちょうどナイアガラの滝を生で見るような、そんな感じだった

ミラノに着いたら、お友達によろしくね
彼女は事もなげに言った
え?友達に会うって話したっけ?
聞かなくても分かるわ
どうして?
ミラノでは友達に、アントワープでは恋人に、ブリュッセルでは家族に、人は会うのよ

お客さん、着きましたよ、ミラノに
運転手が僕を呼んだ
僕は慌てて席を立って少女を見た

また会えるかな?
会えるわ、アントワープで
おやすみ
おやすみなさい

僕はバスを降りた
ミラノの大聖堂は朝陽を湛えて橙色に輝いていた
バールでエスプレッソを飲んだら友人の家に行こう
バスはもう見えなくなっていた
きっと月は、物理的に体積として消えたんだ
今はもう、不思議な気はしない。

年に一度、こんな夢を見る