倉庫とパッケージ、6。

第21期(2015年6月-7月)

倉庫とパッケージ、6。

旬、の話。

忘れないように努めていることは、
やがては忘れてしまう事であり、
思い出さないようにしていることは、
何かの拍子に必ず思い出してしまう事である。

この二つの事柄は、
或いは別々の倉庫に同じ名前で保管されているか、同じ倉庫に別々のパッケージで保管されている。
つまり、
記憶というものは僕たちの意思や考えだけでは完全には管理できないもので、その類似性が記憶の引き出しの取っ手のような形をして時折、僕の人生にその重要そうな「何か」を問いかけて来るのだ。

黄金色の液体の
小さな泡を数える

細長いグラスの中で
それは今、生きている
音も立てずに抜かれたコルクは
床に転がって
瓶はベッド脇の小さなテーブルに
一輪挿しの様に屹立している
真夜中の海を想う
雨音が波音に変わる
薄暗い部屋の中で
白桃の香りがする
二億八千万
そんなに?と彼女が尋ねる
みたいだよ、と答える
グラスを唇に近づけると
液体の他に小さな粟粒が当たる気がする
喉の奥に束の間
焼ける様な冷たい熱が迸り
柔らかな塊が
食堂を通って内臓を酔わせて行く
アップルパイを焼く様な
香ばしい香りが口内に広がる
旅のサーカス団が奥歯と舌の上で踊る
1584年
このワイナリーが誕生した
知ってる?
知らないわ
日本では長久手の戦いがあった
知らないわ
みんなが丁髷して戦ってた頃
このシャンパンは存在した
そういうと彼女は笑った
可笑しい?
ええ
貴方がこれまで話した中で一番
それは、良かった
丁髷とシャンパングラス
確かに、可笑しい
グラスの中ではまだ忙しなく
二億八千万の気泡が空を目指していた
行くあてもないのに
波音はいつしか止まっていた
雨がやんだのだろう
鉛筆ほどの隙間の窓から
濡れたアスファルトの匂いが入り込んで来た
July、7月、Juillet
この季節だけが
シャンパンの旬だ
6月の終わりから7月半ばまでの僅か
アスファルトの濡れた匂いが
蒸し上げられたように
突き上げてくる
乾きと、湿りを含んで
それが
シャンパンの魅力を引き出す
梅雨
ねぇ、どうしてバイウって言うの?
空調がなかった頃
この時期、世界には黴が蔓延ってた
カビ?
そう、だから黴雨
丁髷にも生えたかしら?カビ
僕は笑った
可笑しい?
可笑しいね
君が今までに話した中で二番目に可笑しいよ
一番は?
一番?
一番は?なんの話?
それはね、と言いかけて
僕はグラスのシャンパンを飲み干し
二杯目を注いだ
彼女も同じようにグラスをカラにした
僕はシャンパンを口に含んで
それを彼女の唇から流し込んだ
アップルパイの味がするわ
そう?
懐かしい、アップルパイの味が
そうかもね
ねぇ、一番は?なに?
僕が君を好きだよと言った、あの日
君は、私も、と言ったよね
あれが一番可笑しかった
僕は君に好かれているなんて
これっぽっちも考えなかった
丁度
アップルパイ味のシャンパンを丁髷の武士が飲む姿くらい
想像もしない可笑しな出来事だったよ
と、頭の中で想像して
僕は言わなかった
代わりに
彼女のグラスに二杯目を注いで
電気を暗くしてカーテンを開けた
遠くで雷が鳴っている
夜はその完全な姿を誇るように限りなく広がり
厚い雲に覆われたその上に
満点の星空を閉じ込めているのだ
そう
このグラスに二億八千万の粟粒を閉じ込めているように
どうしたの?何見てるの?
あぁ、今ね、梅雨が明けて行くよ
どうして分かるの?
僕は黙ってシャンパンを一気に飲み干した
分かるんだ、昔から
この金色の液体は季節の移ろいを教えてくれるから
ねぇ、こっちに来て
振り返ると彼女は静かに微笑んだ
薄暗い部屋には
白桃とアップルパイと真新しいシーツの匂いが
脳を刺激するように満ち満ちて
気泡が雲の上を目指す音と遠雷が聞こえていた
おやすみ、世界

僕らはまだ、眠らないけど

シャンパンの旬は短い
ヨーロッパの乾いた7月よりも
湿度の高い日本の梅雨が
シャンパンの本来の美しさを際立たせる
僕は毎年、そう思う