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2F/当番ノート

荒地の話1

第21期(2015年6月-7月)

フランスの庭師ジル・クレマンの新たな著作『動いている庭』が日本語訳に訳出されたので最近手に入れた。自身の生業である庭での活動とその分析とともに、何やら時々神妙な言葉を文章に散りばめてくれている。(日本語訳のこの淡々としてけれども時々グサリとする確信めいたことを打ち明けるその文体は、もしかすると訳出者の仕事なのかもしれない。私はフランス語で書かれた原文を読むことができないので、そのへんは分からない。)
私にとっては非常に興味深いので、ここにいくつか並べてみる。(※1)

「構造物への執着は、それが不変のものであってほしいという望みへと駆り立てる。しかし庭とは、絶えざる変化が生じている特別な土地なのだ。ところが庭園史は、人間がいつもこうした変化と闘ってきたことを教えてくれる。あらゆる人為は宇宙をつかさどる一般的なエントロピーにたいして、築きあげる力を対立させようとするかのようだ。この力の唯一の目的、それは死を回避すること、死から逃れることなのだろう。」(14頁)

「草花は良いものも悪いものも隣り合い、絡み合っているとすれば、花々のまとまりの位置と形を決めていくことになるのは、こうした植物の生物学的なありようである。そしてこの生物学的なありようも、植物の種類とときの流れに応じてさまざまに変わっていくので、当の花々のまとまりはあらゆる種類の動きにつきしたがうことになる。その結果、庭の外観には絶えざる変更が生じる。というのも、ここで話題にしている花々のまとまりは、どんな庭でも見られるようにただ季節まかせに変化するだけではないからだ。さらに、とりわけそれは庭の予想しない場所に現れては消えるので、その進展は一瞬たりとも同じではない。」(31頁)

「『できるだけあわせて、なるべく逆らわない。』」
(148頁)

庭作りについては私はあきらかな素人であるが(持っている庭も無い)、著書の中で彼の庭のモチーフとして取り出している「荒地」についてはもしかすると万人が素人なので、ここで少しの荒地に対する注釈程度は加えてみる。

T・S・エリオットの『荒地』という詩集がある(※2)。荒地という具体的な荒涼の場所の気配の中でむしろ足りないもの、あるいはそこにやもすると在るのかもしれないものについての言葉と小さな物語が集められている。散逸して、クレソンが分析する荒地の中の植物たちのように、エリオットの言葉の数々がザワザワと散りばめてあるというような作品であるが、ヒョンなことで読んで、文学の素養に乏しい私が何故か入り込むことができた詩集である。

ピラネージの細密銅版画のごとく、廃墟の中に微かにうごめいているようにも見える人影、スコッターのような残像へのむしろ期待を、私は荒地、あるいは見知らぬ風景に対して抱くことがある。荒地は何も無い場所ではなんでもなく、何かが終わりまたもしかすると何かが始まる場所であるし、はたまたクレマンが述べるように始まりも終わりもなく、植物をはじめとする様々な因子が絶えず明滅を繰り返している場所である。(おそらく、ここでハイデガーの存在論がふっと湧いてきそうだが、私にはその力が全然足りない。)

クレマンと、その背景にいるアラン・ロジェの「惑星という庭」=「garten、ちあろ囲まれた土地」という想像力は、20世紀のR・バックミンスター・フラーの「宇宙船地球号」なる世界構築の構想に極めて近い。おそらく二つはほぼ同じ方向を向いている。庭師クレマンは種々の植物の相互連鎖する時間的遷移の空間の有様を一気に地球全体のスケールまで広げ、バックミンスター・フラーはアインシュタイン、オイラー等の科学史の蓄積によって判明した原子・陽子レベルの物体間に働く相互引力から成る動的平衡を、世界全体の社会システムと文明の発展史に重ね合わせた。

クレマンの著書でもその飛躍は唐突である。けれども、確実に彼らは確信めいて言葉を繋いでいる。特にバックミンスター・フラーは残されている文章の多くが、講義録等からの口述筆記であり、横溢する想像力と事物を連関させる知力の姿が講義風景からもよくわかる。彼の知識と興味の数々が、それこそ分子間力のごとくに相互に連関し、さまざまに変体する動的平衡の状態が脳内にあったのであろう。(※3)

そんな、いくつかの近しかろうモノの学習をしている。

※1 『動いている庭』ジル・クレマン著、山内朋樹訳、みすず書房、2015年。実際本書は上に少し触れた言葉にとどまらない、より手を伸ばして触れることのできるような哲学の発見に満ちている。

※2 T・S・エリオットの詩の一節をここで乗せてみたいが、おそらくこんなところに乗せてしまうと興ざめなモノとなるので控えようと思う。

※3 話の散逸さでいえば、建築家・吉阪隆正の講義も素晴らしかったらしい。(youtubeでいくつか見ることができる。)
あっけらかんそのままの、統合しない話の連続であったようである。そんな話と彼の人柄、さらには設計手法ともいえるその建築に対する姿勢があってこその非統合であろう。非統合という全体、つまり吉阪の言う「Dis Coutinue (不連続統一体)」の実践の一つであったのだろう。言うまでもないが、バックミンスター・フラー(その前におそらくシュレーリンガー)、庭師クレソン、そして吉阪隆正は深く通底している。もちろん私自身の、興味の網の中での、これもまた相互連関の小径である。

2015年6月17日
佐藤研吾

佐藤 研吾

佐藤 研吾

1989年生まれ・architect・
Assistant Professor, SCHOOL OF ARCHITECTURE VADODARA DESIGN ACADEMY

Reviewed by
朝弘 佳央理

佐藤さんのコラムを読むと頭のあちこちから記憶やら小さな知識やら聞いたエピソードやらがひっぱってこられ、考えが再び編まれるようなことが起こる。(つまり私がそれだけ佐藤さんの視点に興味を惹かれているということなのだけれど。)

佐藤さんのコラムは森の話で始まったが、今回触れられている『動いている庭』はまさに、生き死にということ自体があらゆる事象を含んで絶え間なく変化している森というものを人の生活の隣に見ようとしたものだろう(未読なので確かでないが)。
このところ「森」というものに最近再び惹かれている。野放図に広がる森にだって相変わらず惹かれるけれどそれだけではなくて、森というものと人間が予てからどう関わり、どう対話してきたか。(例えば漁師さんが森を育てる話や、神宮の森は100年前に設計された人口の森だけれど今やほぼ自然の森と変わらないものになったという話や)

森には色々なものが同時に存在している。
それぞれは個々変化し、触れ合いが変化を生み、その連続が緩やかに全体を揺らし、揺り戻す。
小さな眼鏡で見た死は森全体を次の生に運ぶものになる。
森でおこっていることは人間の身体や精神の中にも他との関係性に於いても等しく言えることだろう(たぶん本来は)。
私たちは森全体のことを忘れている、たった今自分だけがいかに生きるかということはそれのみで考えられることではないのに。
いま私が何かというと「森」へ立ち返ってしまうのは、おそらくそこに何か、私にとって(もしかしたら現在の人にとって)大切なことが多く含まれているように感じるからなのだろう。

*

何故廃墟に惹かれるのかということを度々考える。
私はきりのないことが好きだ。殆ど切望している。本を読み終わるのもゲームの終わりが近づくのも淋しい。最終回をやらずに放り出すのは飽き性ゆえではない。

廃墟は建物の終着の姿だ。きりの姿だ。「きりのないものが好き」と矛盾する。
廃墟と「きりのないもの」の接点は何だろうなと考えたのだけれどそれは多分、建物が初めて森の一部になろうとしている、というような感触なんだろう。
建物は、作られたものは、どんなに新しくても完璧でも「きりがある」ものだ。
だから朽ちて初めて、生まれた時の思惑から離れて、人の手に寄らないものに包まれて初めて、命の循環に関わることでやっと、きりのないものになる。

なんかコラムと全然関係のないことなんだけど、最近の私の関心ごとがここでもひとつすっと小さい巾着みたいなものにまとめられて手のひらに載せられた、みたいに腑に落ちたので、紹介文として書いてみました。

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