5年前の「明日」が、人生の区切りとなった。

第25期(2016年2月-3月)

今日は、3月10日。
あたりまえながら、明日は3月11日だ。

この5年間、何度この日付を記し、この日のことを語っただろう。いつから“震災前”と“震災後は”に区切って話しをするようになったのだろう。地元、福島県いわき市から遠く10,000km以上離れたニューヨークにいても、この日ばかりは、故郷を近くに感じたい。色々思い出すのは、ちょっと気が重いのだけれど、この連載の話をもらった時から、これだけは書かないとなぁと、なんとなく思っていた。書く前から気付いていることがある。今回は、なんだか長い文章になりそうだ。

5年前の明日、2011年03月11日、東日本大震災が起きた。当時私は東京で働いていた。外出先から中目黒にある事務所に帰る車の中で、それは起きた。車が上下左右に大きく揺れた。誰かが車を揺らしているのかな?と思ったが、左右に見える高層ビルの不穏な揺れと、そのビルから道路に飛び出してくる人たちを見て、これは地震だということに気が付いた。信号はまだ動いていたので、とりあえず事務所に戻った。急いでテレビをつけると、そこには津波に襲われる港の映像が映し出されていた。画面の右上には「LIVE いわき・小名浜」の文字。私の故郷の名前がそこにあった。気が付いたら、泣いていた。“あー終わったな”と思った。それと同時に、何かしなければいけないような気がしてならなかった。

3月11日の夜、私はいわきに帰省する予定だった。会う約束をしていた友達は「地震で家の中がぐちゃぐちゃで今日は会えなそうだわー」とメールを送ってきた。母親に電話してみると「地震で大変だけど大丈夫よ!」と。みんな何が起きているのか、この時はよくわかっていなかった。段々と状況がわかってくるにつれ、悲しさは増した。翌日からの原発事故により、何がなんだかよくわからない状況になった。「水が出ない」「ガソリンがなくて逃げられない」「私のまわりはみんな生きてるよ」地元の仲間たちからそんな連絡が来る中、私は東京にいて、普通にご飯を食べて、寝る場所があって、ただネットで情報を追いかけることしか出来ず、無力だった。「しばらくはこっちには来ない方がいいよ」と、地元に住む何人もの人から言われて、悲しかった。自分の故郷が、いてはいけないよう場所になってしまった。これは夢か?と何度も思ったけれど、すべて現実だった。

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そこから、故郷・いわきを追いかける日々がはじまった。震災直後からTwitterで冷静に状況をツイートしている人が数人いて、そのうちの一人が今一緒に団体をやっている末永早夏だった。原発が爆発した後、一度は東京に避難した末永だったが、少し落ち着いた3月末、東京で支援物資を集めていわきに持ち帰ることにした。Twitterで呼びかけたところ想像以上に物資が集まり、自家用車に積みきれず、トラックと運転手を募ったところすぐさま名乗り出てくれてくる人があらわれ、トラック1台分の支援物資とともにいわきに帰った。帰ったはいいが、今度は支援物資を置く場所がなく困った末永は、知り合いのNPOの代表に電話をした。NPOの代表は、すぐさま持っていた倉庫を貸してくれた。物資は集まったものの一人で配布出来る量ではなく、末永は再びTwitterでつぶやいた。すると、近所に住む同世代の仲間たちが次から次へと倉庫に集まってきた。

私が末永と初めて出会ったのは、2011年4月2日に神社で行われた炊き出しだった。決して押しは強くないのだけれど、まっすぐ芯の通った女性だった。そもそも持っている気質なのか、イギリスの大学で途上国支援の勉強をしていたせいなのか、避難所へサポートに向かった際、何にも臆することなくそこにいた人たちに次から次へと声をかけ、テキパキ動く彼女はとても頼もしく、私はただ彼女の後ろをついていくことしか出来なかった。こんな人が地元にいたのかと、私はちょっと嬉しくなった。

それからというもの、時間があれば物資倉庫に足を運ぶようになった。明日が来るのかわからない日々の中、地元の仲間たちと日向ぼっこをしながら、いろんな夢を語った。「自分たちのこの経験を本にしよう」とか「みんなが楽しめるイベントやりたいよね」とか、最悪の状況の中で最高の未来を描き、話し、笑った。どこを探しても光が見えないような時期だったけれど、そこに集まった人たちは、なぜだかとても前向きで心強かった。今思えば、そうでもしないと気持ちを保つことが難しかったのかもしれない。私にとって、そこにいた人たちが光だった。

Hidemi_7_2※震災直後、物資倉庫でのひとこま。真ん中にいるのがMUSUBUのパートナー末永早夏だ。

近所のスーパーが再開し、物資支援も終わりにしようという話になった頃、倉庫を貸してくれたNPOの方からボランティアセンターの設立・運営に関わらないかという話をもらった。その話をきっかけに私たちは「MUSUBU」という団体を立ち上げ、活動を始めた。ボランティアセンターの運営から始まったMUSUBUの活動だが、日向ぼっこしながら話したことを実現しようと、それ以降、音楽やアートを絡めたプロジェクトや地域に根差したイベントをいくつも展開した。たくさんの人たちを巻き込み、時には私たちも巻き込まれながら。

あれよあれよという間に時が流れ、私たちの活動もまもなく6年目に入る。誰に言われたわけでもなくはじまったMUSUBUは、楽しめなくなったらやめようと、最初から決めている。「復興」という言葉を掲げたことは一度もなく、単純に、自分たちのまちでワクワクすることを増やしたい。そんな思いで活動を続けている。震災直後、「福島」「いわき」で検索すると驚くほどネガティブな情報しか出てこなくて、悲しかった。現地にいれば分かる明るいニュースも、一番伝わってほしい出来事も伝えてもらえないのであれば、せめて自分たちで伝えることをしていかなければいけないと、ずっと思っている。活動をはじめてからは、機会があればどんどん外に飛び出すようにしている。

私をとりまく大半の人たちは、震災後に出会った人たちだ。震災前には見向きもしなかった愛しき故郷には今、同じ時間を共有できるたくさんの仲間がいる。あの日から、何もかも変わってしまったけれど、すべてが悪い方向に変わってしまったわけではない。あれほどのことがなければ気付かなかったことがたくさんある。何かを気付かせるための出来事にしては、代償が大きすぎたという事実ではあるのだけれど。

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震災以降、3月11日はいわきで過ごすことにしていた。ただ静かに、その日が穏やかに終わればそれでいいと、海を見に行き、家族といつもどおり夕飯を食べる。当たり前の日常を、当たり前に過ごす1日。しかしながら私は今、ニューヨークにいる。震災から5年ということもあり、日本に帰ろうか悩んでいた時、いわきに住む末永にラインを送ったら、こんな返事が返ってきた。

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ここにいたい気持ちはあるだろうね。英実、毎年海行ってたし。

3.11、きっとほとんどの人はいつも通りの1日を過ごすと思うんだよね。

ただそれって、3.11を忘れてるってことじゃなくて、あれだけ有り難みを感じた日常を過ごすってこと。

ここにいなくても、何かしていなくても、誰も3.11を忘れてなんかいないよね。

だから英実は、今の日常を過ごしていいんじゃないかなぁ。せっかくNYにいるんだし。

クライストチャーチもミャンマーも、フィリピンもパキスタンも今のシリアも世界中でいろいろあって、
そういう世界のことを感じれる場所にいるってのもなんか意味があると思うよ。

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文章と一緒に、昼寝している彼女の子供の写真が送られてきた。固まりかけていた気持ちが温まり、そっと溶けた。

ニューヨークに来てから、色々な国の友人が出来た。世界で日々起きている出来事は、身近な友人の母国で起きている出来事だ。日々誰かに「ニュース見たけど、あなたの国は大丈夫?」と話をしている気がする。知らないではすまされないことがたくさんある。なぜ私は、今まで気付かなかったのだろう。福島は、日本は、今どう映っているのだろう。自分の故郷で起きた出来事を遠くから思いながら、自分に出来ることを考えた。

そんなわけで私は今日もニューヨークにいる。今、自分がやるべきことをここでして、私が出来るこれからを生きる。当たり前の日常を過ごせる幸せをかみしめながら。