それでも紫陽花は咲いていた #4 「青色嗜好症候群」

第25期(2016年2月-3月)

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 家の扉が叩かれたのは午后のハーブティーを淹れようと読書の顔を上げ、立ち上がった時だった。
 窓から差し込む光は淡昏く、雨音は朝からずっと硝子を叩き続けていた。細く降り注ぐ音の中で読書をするときほど、幸せな瞬間はない。
 こんな雨の日にわざわざ訪ねてくる人間はそういない。よっぽど急ぎの用か、よっぽどの変わり者かのどちらかだ。おとなしく本を読んでいた相棒が扉の方を見るなり、慌てて巣箱に帰っていくから嫌な予感はしたのだけれども。
 「貴方だったの」
 玄関に立つ彼は、傘を持っているにも関わらず白衣から水滴をしたたらせている。
 水いろのタイルに雫が落ちるたび、ぽたりぽたりと複雑な波紋を描いた。
 「久しぶり。そのうち行くと、この前手紙を送っただろう」
 医者はマスクをした口でくぐもった聲を発してから、ごほごほと小さく咳をした。
 「失礼。咳が止まらなくてね。酷い風邪なんだ」
 マスクをしているからか、銀ぶち眼鏡はうっすら白く曇っている。彼は風邪を引いたなどと言うくせに、いつもの灰色のスーツに薄っぺらな白衣を羽織っただけだった。
 「そんな格好をしているから風邪を引くんじゃないの?」
 呆れたように言えば、手厳しいと苦笑する。
 私は彼を暖かい居間へと通した。廊下を歩く間も、彼の服の裾やよく磨かれた革靴からは絶えず水滴が落ちていた。
 「相変わらず傘を使うのが下手なのね」
 「君ほど僕は雨の中を歩き回るのが得意じゃないからな。すまないね」
 柔らかいタオルを受け取ると、医者は眼鏡を外して濡れた髪や肩を拭いた。
 長く伏せ気味の睫毛や、その奥の濡れたように光る瞳までよく視えた。
 「この間は喉飴をありがとう。喉が腫れて薬も効かないから困っていたんだ。君は何だかんだ言って世話を焼いてくれるから助かっているよ」
 「人の親切を便利道具のように言わないで。貴方の使うその言葉は好きじゃない」
 彼の言い草に少しばかり腹が立ったので言い返したが、彼は一向に意に介さないようだった。
 「僕はいつも君を怒らせてばかりいるね」
 「気が合わないんだわ。きっと」
 外の雨はいささか弱まったようで、地を叩く雨音はさぁさぁと細く天をつなぐ銀の糸になる。
 私と医者がたくさんの話をすることは殆んどと言って良いほど無い。医者は暖炉の火を見つめ、私は灰いろの天を見る。ある種の柔らかい沈黙だけが二人に残されたすべてだ。それだけが心地よかった。
 時計は無くても昼を回ったことは身体で分かる。私は昼食をこしらえる為に立ち上がった。
 「雨が降っているよ」
 暖炉のそばに座ったままの医者はつぶやいた。
 「病人を庭に出す訳にはいかないもの」
 私はそう言うと裏庭から表へ回り、生垣に咲き残る紫陽花が無いか調べた。真冬の北風に当たり、紫陽花はみな飴色に朽ちている。
 私は諦めて庭に咲き残る花々を調べた。早咲のムスカリが小さな群を作り、雪に隠された宝石のようだった。私はムスカリを摘み取って持っていた白い皿に乗せた。
 台所に戻りスープを温めパンを籠に詰める。洗い清めたテーブルの向かいには皿に乗せた青い花、よく磨いた銀の食器をならべた。
 医者は何も言わず向かい合わせの椅子に腰掛けた。余計なおしゃべりはしない。それでいい。
 私がどうぞ、と言うと、医者は軽く会釈してからナイフとフォークを使い、青い花を器用に切り分けて口へ運んだ。
 食器の触れ合う小さな音だけが響く静かな食事は、何かの神聖な儀式のようだった。
 「魔女の花はいつ食べても美味しいね」
 上機嫌に目を細めながらムスカリを咀嚼する彼の指には、青い石の嵌め込まれた銀の指環が光っている。
 彼はある時から青い物しか食べられなくなった。
 花を貪る彼の傍ら、私は野菜のスープとライ麦パンを口に運んだ。

 「薬を作るから、少し待って」
 食事が終わり、私は薬壜やいくつかの鉱石、薄荷の束などを棚から取り出した。医者はすまないね、と一言告げたきり、マスクをして再び窓の外を眺めた。
 月長石を擦った粉に薄荷水を加え、温めながらよく練り、世迷言と嘘と数種の薬草を融かしたミルクを入れて煮込む。
 完成した薬をまだ温かいうちに青い壜に詰めて差し出せば、医者は壜に直接口をつけて少しずつ飲み下した。
 「今度から薄荷は少なめにしてくれると嬉しいな。苦手なんだ」
 「だったらもっと身体を気遣った方がいいわ。こんな雨の日にずぶ濡れで歩くから風邪を引くのよ」
 医者はごめん、と苦笑して壜に残った薬を全て飲み干した。部屋の中はかすかにつんとする薄荷の香りで満たされた。
 「いつもこうして薬の調合をしているのかい」
 「急ぎの時や、あなたのように身体の具合が悪い人の時にはね。心よりも身体の調子を取り戻すのが先決な人も確かにいるのよ」 
 医者は一つ相槌を打つとマスクを外した。もう咳は止んでいた。
 
 「彼女の喉も、こうして治してやればよかったのに」
 彼が雨の外を見ながら呟いた言葉を、私は聞き逃さなかった。私は食器をきれいに洗ってお茶を淹れた。
 「僕の家をときどき女性が訪ねてくるんだ、喉を診せにね。普段は自分の家の近くにある海岸で、砂に物語を書いていると言っていたよ」
 真冬の海岸に這いつくばって、ひたすら文字を綴る背中が頭をよぎった。小さく丸まって痩せた背中は、背骨の一本一本が浮き出ていた。綺麗な背骨だった。
 「だって、彼女はそれを望まなかったから」
 彼女の家族から送られてきた手紙には、彼女の放浪癖を止めてほしいと言う事、彼女の夫は海で死んだのではなく、他の女性と恋に落ちて三ヶ月前に行方をくらませた事が書いてあった。
 記された場処に向かってみれば、手紙のとおりに彼女は砂に恨み言ばかりを綴り続けていた。
 「それで、彼女には何も言わずにその場を後にしたのかい?冷たいなあ」
 「何が彼女にとって幸せかは彼女自身が決めることでしょう。真実だけが人を救うとは、私は思わない」
 きっと彼女は、苦しみや痛みと向き合うのをやめ、海へ逃げたのだ。目の前にある残酷な現実を、彼女は受け止めきれなかった。
 「そしてきっと遠くない未来、その真実は彼女を捕らえるだろうね」
 歌うように言う医者は頬杖をつき、窓に滴る雫を眺めている。手で隠した口元からは、何の表情も伺えない。
 「魔女は逃げてゆく人に甘すぎる」
 責めるような口ぶりに、私は大袈裟に肩をすくめて見せた。
 「誰も、誰かの選択を責めることなんて本来できない筈だわ。どんな道を選ぶかも、その先何が待つのか確かめるのも、最後に残るのは自分だもの」
 それが逃げの選択だとしても、私は彼女の意志を尊重したかった。
 「背負ったものを忘れることを選んだ貴方には、きっとわからないでしょうね」
 彼の指環を見た。磨かれた表面に彫られた鯨座には、心臓に当たる星に青い石が光っていた。
 ずっと昔、彼が交換したものだ。もっとも、指環を交わした頃の彼はもう死んでしまった。
 「魔女の話は難しすぎて、僕にはわからない」
 困ったように苦笑する彼に、私は返事をしなかった。
 「魔女は僕のことが嫌いかな?」
 「貴方とは長い付き合いだもの。・・・自分がもう一人、白衣を着て歩いているようなものよ。好きとか嫌いとか、そんな言葉で簡単には言い表せないわ」
 医者の言葉は時折、私と交わることのない一線を引いてみせる。それが彼の意識なのか、無意識なのかは分からない。
 けれどもその線が、此方と彼方とを別の考え方を持った二つの生き物なのだと言う事、二つは決して一つにはなり合えないのだという事を如実に表していた。
 「こんなに近いのに、どうしてどうしようもなく離れてしまうのかしら」
 私の呟きが彼の耳に届いたかどうかはわからない。小さな聲は、静かに注ぐ雨音に混じって、融けた。

 じゃあ、また。
 短く告げる言葉はいつも変わらず、少し猫背気味の白衣の背はふらりと音もなく遠ざかってゆく。
 一日中降り続いた雨は止み、低く垂れ込めた雲は仄かに明るみを帯びた。
 雨を連れ去ってしまうかのような医者の背に、私は小さく手を振った。
 
 「次に来る時は、美味しい紫陽花を召し上がれ」