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2F/当番ノート

それでも紫陽花は咲いていた #3 「貝が呼ぶ」

当番ノート 第25期

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 今日も西のはずれにある海岸へ来て、手頃な細さの流木を探した。
 冬の海は濃い藍を湛えていて、海岸を歩くひとは私以外いなかった。天は鈍いろの雲が垂れ込め、砂浜は実にさまざまな漂着物であふれている。古い空き壜、硝子の浮き玉、ケルプ、小型の冷蔵庫、潰れたホヤ、靴、箒。
 漂着したごみを数えながら貝殻を拾っては、そっと耳に当てた。昆布を踏んだ拍子にぐに、と気持ち悪い感触がした。
 しばらくぼうっと歩いていると、いつもの場処に辿り着いた。磯がすぐ傍にある入江で、海草や魚の臭いがぷぅんと漂っていた。
 私はしゃがみこんで、砂に文字を綴り始めた。

 私にとって、しなければいけないこと、してはならないこと、そんな風に強制されることはとても少なかった。
 学校へも行かず、仕事もせず、毎日海岸へ足を運んだ。そしてこの入江で、砂の上に物語を綴る。ただそれだけが、私が自らに課した唯一の取り決めだった。
 それは晴れていようが、雨が降ろうが関係ない。病気で臥せっている日以外は、たとえ嵐の日でもずぶ濡れで出かけた。
 家族は最初はばかなことはやめなさい、と止めようとして諌めたり叱ったりしたが、終いには私が玄関で白いスニーカーを履いていると居心地が悪そうに眉を顰め見て見ぬ振りをした。
 書く話はなんでも良かった。御伽噺、空想譚、推理小説、嘘の自伝。ひとたび枝が砂を掻けばするすると後から後から言葉があふれた。何でも書けた。
 物書きをしていた頃、原稿用紙を前にしながら一行書いては消し、一枚書いては破りを繰り返し、ぐずぐずといつまでも一つ所に留まっては、万年筆を片手に途方に暮れていた時とは驚く程の違いだった。
 書いた端から寄せる波が文字をさらうが、そんな事はどうでもいい。私の物語は、私の頭の中に全てきちんと詰まっていた。私はそれを丸写しすれば良いだけの話だった。

 砂を踏みしめる足音に、私は顔を上げた。
 見上げると少し離れた所に一人の女性がいて、此方へまっすぐ歩いてくる。見慣れない顔をした彼女は、丈の長いワンピースを潮風に煽られながら向かってきた。
 この冬の海のような藍灰色(グレイ)のワンピースの裾がはためいて、大きな海鳥が羽ばたいているようにも見えた。
 彼女は薄い唇に小さな微笑みを浮かべながら迷うことなく私の眼前で立ち止まった。あまりにもそれが自然で、親しげな笑みだったから、私はこのひとと何処かで会ったことがあったろうかと懸命に考えを巡らせた。
 「隣、いいかしら」
 その唇からこぼれ出すに相応しい、ひどく落ち着いた聲だった。
 私が頷くと、彼女は抱えていた口金付きの革鞄を砂の上に下ろした。旅行用かと思うほどの大きさなのに、下ろした時コトリとも音を立てなかった。
 『その鞄には何が入っているの』
 「巻尺とか、鏡とか、植木鉢に入った観葉植物とか。ランプと本と洋墨壜とか。色々ね」
 彼女はためらうこと無く砂浜に腰を下ろして、本当か嘘かわからないことを言った。
 『失礼だけど、何処かでお会いしたことがあるかしら。』
 「いいえ、今日が初めてよ。・・・この海岸に来たのも、今日が初めてなの」
 平らな帽子が風に飛ばされないように手で押さえながら彼女は言った。散歩に立ち寄るのに良い日とはとても言えなかった。
 鴎が二、三羽風に乗り、クゥ、クゥと小さく鳴いている。沖の方で豆つぶのようなヨットの白い帆が微かに視えた。
 女性は何も言わずに腰を下ろしたまま、灰青の海を見つめている。私は砂に続きを書き始めて良いものかどうか考えあぐねてしまった。
 「さっきから、砂に何を書いていたの?」
 親しげな聲に私はびくりと驚いて顔を上げた。
 『小説よ。男が海辺の街を訪れて、灯台守の歌を唄うむすめに恋をするの。でもむすめには別に好きな人がいて、男は灯台から身を投げて死ぬのよ。むすめはまだ七歳なの』
 「七歳・・・」
 まるで呪文を復唱するように彼女が呟くと、白く泡立つ波がまたひとすじ、私の言葉を攫っていった。
 「哀しいけれど、良いお話ね。私は好き」
 『みんな私の物語は暗い話ばかりだと言うわ。・・・それでも書き続けたからまがりなりにも物書きになれたのだけど。』
 「薄っぺらな幸福を写した嘘の物語より、哀しくても心を削って書く物語のほうが冷ややかで、美しい」
 本の一節を暗唱するように呟く彼女の言葉に、思わず白い相貌を見上げた。
 女性は此方へ向き直って、秘め事を打ち明けるように囁いた。
 「誰しも言葉を綴る時は自分の一部を削って書いているのよ。鉛筆はすり減るし、洋墨は枯れて渇いてゆくでしょう。自分の何処も削れないで書く言葉なんて、みんな嘘よ」
 彼女が耳に唇を近づけたので、彼女のまとう香りが鼻をくすぐった。何かの花が、雨に濡れたような湿った匂いだった。
 間近で視る彼女の瞳は昏い夜の海のいろだった。
 私は彼女が、何故砂に物語を書くの、とか、形に残らないものを書き続けて何の意味があるの、とか、今まで私が百回以上受けてきた質問をしなかった。
 私自身、やりたいからやっているだけ、としか言いようも無いので助かった。
 けれどその一番私にとって重要な質問をしないからこそ、彼女は私ではなく私の行為にしか興味が無いのだということも如実にわかった。
 『あなたは何をしている人?』
 「今は短い間だけど旅をしているわ。この海岸に来たのは貝殻を集めていたからなの」
 よく見れば、彼女の手の中には沢山の貝殻が握られていた。骨貝、桜貝、葵貝、二枚貝も巻貝も、実に色々な種類がある。
 『こんなに沢山貝ばかり集めて、どうするつもり?』
 私が訊ねると、女性はおもむろに鞄を開け、中から硝子筆と洋墨壜を取り出した。
 それから分厚く青い筆記帳を取り出すと、その中の一頁を千切りとって硝子筆で何かを小さく書き始めた。
 そっと手元を覗けば文字はとても小さく、繊細な細さに何と書いてあるかは読み取れなかった。
 彼女は細かな文字がびっしりと書かれた紙きれを、何故か拾った巻貝の中に丸めて押し込みはじめた。
 私は自分が物語を書くのをやめ、女性の白い指が貝をもてあそぶ様を見つめていた。
 「手紙を書いているのよ。貝に詰めて、海に流すの」
 壜に詰めたボトルメッセージのようなものだろうか。
 彼女はそれから余計なおしゃべりはせず、淡々と作業をこなしていた。少しずつ筆記帳の紙を千切り、黝い洋墨で文字を綴り、丸めて貝殻に押し込める。
 こうして見ていれば単調な作業だったが、彼女はけしてどの貝も、どの行程も疎かにはしなかった。一つ一つゆっくりと、慈しむように白く細い指が貝殻を撫ぜていた。
 紙きれを詰め込まれた貝は、彼女の座っている足元の砂にきちんと整列して並べられていた。
 彼女は小さな手紙を貝へ詰める前に、貝殻をその小ぶりな耳にあてた。まるで中にやどかりが残っていないかを心配しているようだった。
 秘密めいた儀式のような作業は、満ちていた潮が引いてくるまで続いた。
 やがて全ての貝殻に手紙を書き終えると、彼女は色とりどりの貝を海へと流しはじめた。
 傾きかけた陽を受け、薄らときらめく水面に貝は少しの間浮かんでいたが、すぐに波にまぎれて視えなくなる。彼女は暫くのあいだ、手紙を飲み込んだ海を見つめていた。
 『手紙に何を書いてたの。』
 ずっと気になっていたことを訊ねると、彼女は私を見て何故か哀れむように微笑んだ。
 「『深海の孤独も、哀しくなんてないのよ。誰もがいずれ海へ還るのですもの』。」
 その微笑みを見た瞬間、私は理解した。
 ああ、この人は何もかもをお見通しなのだ。
 私の全てを見透かした上で、私の元へとやってきたのだ。

 
 『三ヶ月前、夫が海で死んだの』
 無みはいつの間にか凪いで、小さな漣が寄せるだけになっていた。
 彼女は何も言わなかった。
 『船乗りだった夫は、気弱だけど優しいひとだった。港に一番近いカフェで知り合って、いつも珈琲を一杯だけ飲んでた。恥ずかしがり屋で口下手だったから、ほかの人より倍も時間をかけて言葉を選ばないといけなかった。プロポーズされるまでに、とても長い時間がかかったわ。でも、私が文学賞を初めて受賞したときは一番喜んでくれた。少ない給料で、新しい万年筆を買ってくれたわ」
 私の綴る文字は砂を掻き、ざりざりと耳障りな音を立てた。
 『結婚して三年が経ったある日、夫の船は嵐に遭った。風を読み違えたのね、船は帰ってきたけれど酷い有様だった。他の船員は全員無事だったのに、私の夫だけがいなかった。それが三ヶ月前のこと』
 いつの間にか陽は沈みきり、灰青いろだった海は紺青へと変わろうとしていた。風に乗っていた鴎も、白い帆を張るヨットも姿を消している。
 『それから毎日ここへ出かけては、貝殻の音を聴いていたの。ねぇ知ってる?この街では、海で死んだ人のたましいは貝殻に入って岸へ着くと言われているのよ』

 「聲を失くしたのも、その頃から?」

 私は砂の上に、ええそうよ。と新しく文字を書いた。
 『海へ出かけるたびに、私の唇から少しずつ音が消えてゆくのがわかっても、そんな事かまわなかったのよ。私の耳には今でも夫が呼ぶ聲が聴こえているわ。・・・海の底であのひとに逢えるなら、人魚のように一生言葉を失くしてもいい』
 砂浜に物語を綴ったのは、夫への手向けのようなつもりだった。彼が海底に沈んでいるなら、波が私の物語をあのひとに届けてくれるのではないかと思った。
 『それに、聲が出なくなったら市から給付金が出るようになったわ。夫の蓄えもある。今まで書いた本の印税も少しは入ってくるから、何もしなくても暮らしてゆける。・・・もう、無理に生きようとしなくてもいいの』
 私の言葉を、女性はじっと見つめていた。それは軽蔑でも憐憫でもない、ただの受容。その眼差しは私をひどく動揺させた。
 そう、と彼女は一言呟いただけだった。

 夜がやってきて、暗幕の天と紺青の海に取り残されても、私はそこに居座り続けた。
 女性は私の最後の一言が漣にさらわれたのを見届けた後、大きな鞄を抱え直して立ち上がった。
 「それでは、さようなら」
 あっさりと別れを告げて立ち去ろうとする彼女を私は呼び止めた。
 『これから何処へ行くつもりなの。』
 「行く宛てなんて、特に決めていないの。単なる一人旅・・・というより、ただちょっとした現実逃避だもの。すぐに家に帰るつもり」
 あなたも、と帽子をかぶり直した女性は、私の肩に手を置いて耳打ちした。
 「貝殻の中から聴こえる聲に惑わされないでね。自分の中の聲を見失うことがないように」
 不思議な言葉を残して、彼女は去っていった。

 深い宵闇の浜、波打際を私は歩く。
 足元の貝殻は夜目に白く、私はそのひとつを拾い上げて耳へとあて、目を閉じた。
 「    」
 男の聲が私を今日も海へ呼ぶ。
 

雨柳 優雨子

雨柳 優雨子

1991年東京出身。
青いもの、雨音、星空、鉱石、アンティーク、理科室、インクの匂い。
2014年からtwitterにて、「限られた文字数でいかに人を楽しませるか」を念頭に、原稿用紙と万年筆で『二百字小説』を一日一篇書き始める。
現在執筆でのお仕事を募集しています。
魔女になるため、目下修行中。

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